霊感体質というのかな、そういうものが自分にはあると感じるんだけど、あまり幸せじゃないの。どうせなら、幸せな霊感体質になることはできますか?
新しく生まれ変わる
霊感体質って、体験談をネットで見ても、本人はあまり楽しそうじゃないですね。だから悩みとして出てくるんでしょう。
私は霊感は強くないと思います。霊も見たとかの経験もありません。しかし、クリスチャンとして啓示を受けるという霊的な経験をしています。全く霊感について縁がないわけではありません。というか霊感体質になっていると思います。接する霊には愛があって邪悪な霊を排除する力もあります。なので、幸せな導きしか受けていません。
私は様々な霊を呼び寄せるアドバイスはできなくても、啓示を受けるためのアドバイスならできそうです。
霊感って何?
霊感とは辞典を見ると、神仏の不思議な感応とあります。インスピレーションを指す場合もあります。これで見ると、霊障を霊感とは呼ばないのです。
大なり小なり全ての人は自覚せず霊的なものと接しています。インスピレーションなど霊感とは意識しないで受けるものの方が多いくらいです。
それのみなら霊感を受けることに嫌な感じなどあるわけがありません。でも実際は不快な形で霊障などで悩んでいたり、苦しんでいる人も多いようです。どういうことなのでしょうか? それは、霊感と呼ぶにはふさわしくないものが存在しているからです。
全ての事象には光と陰があります。霊的な事柄にもあります。
光へと導く存在
キリスト教的な言葉にすると、人に対する霊的なアプローチには神霊と悪霊の二つがあります。神霊は聖霊と呼ばれます、その影響力を御霊(みたま)と呼びます。啓示を受けるとは御霊の影響を受けるということです。
神からくる霊感には悔い改めを促すようなものもあって、実は苦しいものもあります。霊的に生まれ変わるように促すのです。本来の健康的な霊感体質になるための痛みと言い換えてもいいと思います。そうなる過程に希望はあるのですが、出来れば避けたくなるようなものが一緒にあったりします。
すると、前に天から聞えてきた声が、またわたしに語って言った、「さあ行って、海と地との上に立っている御使の手に開かれている巻物を、受け取りなさい」。
新約聖書 ヨハネの黙示録10章8-10節
そこで、わたしはその御使のもとに行って、「その小さな巻物を下さい」と言った。すると、彼は言った、「取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」。
わたしは御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。
ヨハネの黙示録の引用です。これはヨハネが壮大な次元を見て記録したものです。ここに出てくる巻き物とは彼が受ける啓示の中身そのものとなりますが、内容は主に地上の人々への裁きについてなので苦いものです。しかし、その目的や神の真意は愛に基づくものであるので甘いのです。啓示や霊感の中にも陰陽がありますね。食べ物も毒でなければ、苦さや辛さも旨みです。
闇に落とす存在
聖霊の反対の存在は親玉をサタンや悪魔と呼びます。その取り巻きを悪霊といいます。サタンも悪霊もまとめてサタンと言ってしまうこともあります。
対して、悪魔のものは美味く感じるけど、毒として作用していくという違いがあります。正しく霊を見分けないと入り口で間違ってしまいそうですね。そこを見分ける鍵は愛なのです。そこに愛があるかどうかなのですね。しかし、神の愛はけっこうスパルタ式なので、神霊と悪霊を取り違えることもしばしばあります。邪神とは悪魔のことです。
どうして間違ってしまうのでしょうね? 神霊の反対側にいる悪霊は怖いものと思っていませんか? 接してみると逆の印象を受けるはずです。楽しくて心地よく感じるのです。肉欲をさりげなく煽る形で誘うことが多いです。
悪霊といえる悪魔からの霊的な接触は、心地よく好感が持てるものだと思います。自分の欲望に沿ったものなので。そこから幸せに向かって発展していく(実は転落している)形になります。今は幸せ、末は破滅というパターンです。乗せて高く挙げて、調子に乗らせて、最後に落とすというものです。不幸な霊感体質を持つ方も最初は楽しかったのではないかと思います。
悪魔の目的は喜ばせ調子に乗らせて、最後の最後に裏切って蹴落とすことです。人の絶望こそが美味なのです。
あなたは変わることができる
全てのものには反対側があります。霊感体質で悩むということは、あなたは抜け出すことができる場所にいます。本来の神仏からの霊感を受けて、不幸せな状態から幸せな状態に変えていくことができます。
精神疾患の可能性
自分がいる場所がどこから導かれて来ているのかを知る目安は、苦難や試練の中にいても幸せと感じているかどうか、です。
また肉体と霊は密接に関連しています。霊障と思い込んでいるものの中に、精神疾患が入り込んでいる可能性を指摘しておきたいと思います。その場合は適切な医療にかかることによって改善や解決が望める場合もあるでしょう。
啓示についてもっと知ろう!
まず、啓示というものを経験する!
モルモン書からの大きなヒント
私は末日聖徒イエス・キリスト教会という教会に所属しています。この教会は個人の啓示を肯定しています。むしろ神からの導きを個人的に受けることを推奨しています。
ただ、私は教会に入るときには、そういうことに関心があまりなかったんですね。あまり大切に思っていませんでした。それでも、生きているのですから悩みや試練は生じてきます。切実に助けを必要とする場面がやってくるのです。
そんな時に、どうやって神からの助けを受けることができるのかを知るヒントに多く接してきていたのは幸運でした。祈りや聖典を研究するなど真剣味は足りませんでしたが一応は実践してきていました。
悩んでいたある日のこと聖典を読んでいました。モルモン書を読んでいたのです。モルモン書というのは末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典です。そのある部分が強く印象に残ったのです。
モルモン書には、こうして啓示を受けるという事例が豊富に出てきます。聖書より簡単で明瞭なのでわかりやすいのです。モルモン書の中から、私が啓示を受けるという行動を起こすために、大きな動機となったものをご紹介します。
さて、わたしニーファイは、父が示現の中で見たこと、また父が来るべきメシヤである神の御子を信じる信仰により授かった聖霊の力によって語ったことについて、父の言葉をすべて聞いた後、わたしニーファイもまた、聖霊の力によってこのようなことを見聞きし、また知りたいと思った。聖霊とは、昔の時代でも、またメシヤが人の子らに御自身を現される時でも、およそ神を熱心に求めるすべての人に神が与えられる賜物である。
モルモン書 ニーファイ第一書10章17節
リーハイという人は預言者で、神から頻繁に啓示を受けていました。啓示であり示現と呼ばれるものです。示現とはバーチャルリアリティのように、まるで自分がそこにいるかのように経験できるのです。彼は示現を見たあとに家族に語って聞かせました。息子であるニーファイはそれを自分でも実際に見て知りたいと思ったのです。
さて、わたしは、父の見たことを知りたいと思い、また主がそれを明らかにしてくださると信じて、思いにふけりながら腰を下ろしていたとき、主の御霊に捕らえられて、まことに、非常に高い山へ連れて行かれた。それは、まだ一度も見たことがなく、一度も足を踏み入れたことのない山であった。
モルモン書 ニーファイ第一書11章1節
ニーファイは父の話を聞いて、大きな刺激を受けました。本当に同じ示現を見たいなあと思ったのでしょうね。彼は夢中になって考えていました。思いにふけりながらとありますね。そいうとき肉体は少しお休み状態で、心が集中する状態でした。それは答えを求めて祈ることと同じ状況だったと思われます。
そしてニーファイは父の示現で見たものを霊の眼で見たのです。霊感を受けまくりです。そこにはネガティブなものなどなく、大きな喜びがありました。
自分に適用すると
聖典の内容は、ただ読むだけなら、ただの不思議な話で終わってしまいます。聖典の真価はそれを自分の経験にしてしまうことです。聖典は預言者が霊感されることによって啓示を受けて書き残したものです。それを正しく理解するためには、預言者と同じところからサポートを受ける必要があります。その入口の役目を聖典は持っています。聖典には読む者の霊的な力を引き上げる力があるのです。
いつも啓示!
啓示の源泉は同じところにあると感じています。宗教や方法は表面的には様々で言い方ややり方が異なっていても世界に散りばめられていると思います。もし、そういうものが、今のあなたの周囲にないならば、あなたのいるべき場所を変えるか、探す必要があるかも知れません。
私の場合はクリスチャンで、この教会でそういう方法で啓示を受けるという経験を獲得しました。最初の経験は神から来るものに対する認証コードのような働きをします。霊感に正邪がある以上、邪からの霊を受け入れてしまわないように、正なる霊の感じを心に焼き付けるのです。というか、焼き付きます。
私もNEXTを探しています。それは別の宗教を探すという意味だけではなく、この場所で次のステージを探しているという意味です。
これを読んでいる人は神仏など、人を超えた存在を肯定できる人だと思います。それを否定している人に対してはこの記事は無力です。
霊感体質を好転させる
霊障に悩んでいる人が正しいところから導きを受けるようになれば、あるべき霊感体質はあなたを幸せに導いてくれるでしょう。何かを選ぼうとするときに啓示の源泉に、そっと心で問いかけることができます。湧き上がるようにどちらを選ぶべきか浮かんできます。その答えは表面上のあなたの望みとは異なっているかも知れません。しかし啓示は心の奥の奥にいる神と重なる場所にいる自分が望むものと常に一致しています。それでも何を選んで行動するかはあなたが選ぶことができます。
結界を張る
神の霊が作用しているときには、結界が張られていて他の霊は排除されています。啓示を受ける状態を守ることであなたは平安を得るのです。
それで高慢になって、知らぬ間に神を忘れ、悪霊が神となって入れ替わるという事例はあります。啓示を経験すればずっと安心というわけではありません。それでも、そうなる危険があると知っていれば、態度を改めて謙遜になることができます。
知って、意識することで正しい道に戻ってくることができるのです。
幸せになろう、人生はいいもの
私たちは幸せになるために存在しています。怖い霊に悩まされている方は、その反対へ行く方法が必ずあります。それを信じて動きましょう。
末日聖徒イエス・キリスト教会の教義は人は神の子と教えます。子供は成長して大人になります。神の子である人は成長して神になれると教えています。本来の人という言葉には完全という意味があり、人とは神のことです。現世にいる私たちは未だに神ではない人でなしなのです。私たちには神になる途上にあると捉えています。
何を言いたいかというと、人にはそれだけの伸びしろがあるということです。あきらめてしまわない限り次のステージがあなたを待っています。あなたは変わり続けることができます。
あなたが置かれている状況がどうであろうと、今が幸せと思えるように心から願っています。
コメント