聖書の作者は神様ではない?

当ページのリンクには広告が含まれています。
ラクダと荒れ野を旅する女性

ここにテキ聖書って神様の言葉って聞くけど、書いたのは人でしょう?

聖書の原本を書いたのは、ほとんどの場合は預言者です。預言者は神からの啓示を人々に伝える使命がありますので、彼らは記録を書き残します。それらをまとめたものが聖典です。今回は聖書を取り上げます。

スポンサーリンク
目次

聖書を書いたのは誰?

英文と日本語の対訳の聖書と眼鏡

モーセの五書から

まず、モーセの五書を例に説明しましょう。

モーセの五書とは旧約聖書の冒頭の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。これらはモーセが書いたり、記録をまとめさせたものです。以降はモーセが書いたものとして話を進めさせていただきます。

創世記には天地創造からモーセが生まれる前までのことを記録しています。出エジプト記はイスラエルがエジプトを脱出する様子が記されています。レビ記は祭司達への指示や民に与えられた律法の運用面についての指示をまとめたものです。民数記は主にエジプトを脱出した民についての記録です。申命記は律法についてモーセの説教を主にまとめた記録です。

創世記

モーセは自分達が生きた時代の物語である、出エジプト記などを書く前にそれまでの物語をまとめています。それが創世記です。

創世記はモーセの五書のみならず、聖書全体のはじまりの書となっています。神が地上の人をどう見守ってきたのかを、はじめから順を追って知るための重要な位置にあります。これがないと律法も福音も唐突にこの世に出現したものとなってしまいます。歴史や経緯はとても大切です。

創世記に書かれている内容はモーセが生まれる前のことです。彼は当然のことに地上にはいませんでした。彼はどうやって書いたのでしょうか?

モーセはエジプトの王女の養子でした。王家と血統のつながりこそありませんが、王子です。当時のエジプトは世界でも有数の文明を誇っていた国です。保管されている歴史的資料の宝庫でもあったでしょう。彼はその記録から学び要約して記録にすることで創世記は出来上がっていたのだろうと推察します。参考にした記録の中にはアダムやアブラハムなどが書いた記録や書など、今は失ってしまっている貴重な記録があったのではないかと想像します。

また預言者であるモーセが記録をまとめることで、啓示を通して記録を補間することもできたでしょう。場合によっては失われた記録を丸ごと回復することも可能だったと思われます。これらの記録の信頼性は彼が預言者であることを受け入れるかどうかという私達の問題なのです。

数々の信頼ある記録からまとめられたものは創世記となって、モーセ以前の歴史が埋まります。これらはモーセの記録の前書きにあたります。

証の書の数々

創世記をまとめた後は自分たちの時代の記録に入っていきます。

それからモーセとエジプトの王パロとのやり取り。イスラエルの民の脱出。神殿である幕屋についての指示。石板による律法成立までの経緯など、多くの記録があったことでしょう。それらは独立した文書であったり、本であった可能性が高いですね。

それらの重要事項をまとめたものが出エジプト記となります。

重要な事項とは預言者に与えられた啓示について。その啓示があたえられた経緯。またそこに予言が含まれるなら、その結果の記録などでしょう。起こった奇跡などもそうですね。そこには神の意思が働いた痕跡を記録したものとなります。

まとめられた記録

そうやってモーセ以前の時代や、モーセの時代を分野別にまとめた五つの記録となり、それぞれに名を付けられた書物となります。それらの本を合本にするとモーセの五書として初期の聖書として成立します。

旧約聖書で何々記というのはそういう経緯のある書ですね。また何々書とあるのは単独の預言者の書ということでしょうか。いくつか例外もあるようですが。

書かせた存在

宇宙から見た夜明け

聖書がただの歴史記録でないのは、そこに預言者を通して、または神が直接介在しているものだからです。

預言者が説教をするとき「主はこう告げて言われる・・・」というときには、神が預言者を通して話されます。それらは記録されて残されます。そうして聖書に〇〇書としてそのまま組み込まれたり、〇〇記として抜粋されて載るのです。

確かに書いたのは預言者であったり、記録者という人の手ですが、その真の作者は彼らに霊感を与えた神なのです。

霊感されるのは預言者だけとは限りません。

イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。

新約聖書 ヨハネによる福音書21章25節

イエス・キリスト地上の業で、新約聖書に含まれなかった記録は聖書外典としてあるわけなのですが、上記の記述は大袈裟だと思いませんか? 

初めにがあった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

中略

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

新約聖書 ヨハネによる福音書1章1−5、9-14節

ここで言(ことば)とは旧約の神であるヤハウエが地上にやってきて、現人神であるイエス・キリストとなったことがわかります。この部分で新約聖書は創世記の天地創造とつながるのです。創世記があることでイエス・キリストへの理解がより深まることがわかりますか? ここまでの影響を踏まえて創世記という記録をモーセに備えさせたということです。

ヤハウエ=創造主=イエス・キリスト ならば、

今、私は呼吸をしています。

これだけの記述でもイエスのなさったことについて書いていることになります。何を言っても書いても、意識せずそうなってしまうのです。収めきれないという記述はマジです。世界は聖なる言葉で満たされているのです。

それらの神を証する言葉の全てが聖典となるわけではないにせよ、霊感される人は今も存在していて、無視できないほど重要なものもありそうです。というかあります。神は今も生きていてこその神であり、預言者に限らず今も導きを与え続けています。

だから聖典として扱われるのが聖書だけというのもあり得ない話です。それがどうして聖書の権威だけが巨大化したのでしょう?

今の聖書となった経緯

石造りのアーチ形の門

旧約聖書になっていく

旧約聖書は今のような構成になる前に、モーセの五書のように多くの記録をまとめる各記録や書の集合体として今のようになっています。そうやって今の聖書の形になっていったのですね。

このエズラはバビロンから上って来た。彼はイスラエルの神、主がお授けになったモーセの律法に精通した学者であった。その神、主の手が彼の上にあったので、その求めることを王はことごとく許した。

旧約聖書 エズラ記7章6節

旧約聖書のかなりの部分が祭司であり学者であるエズラ(&学者の集団)によってまとめられました。イスラエルがバビロンに連れていかれ、ペルシャによって解放されエルサレムに帰還することになりますが、神殿の業や律法について、また歴史について知識が散逸し失われてしまう前に、それらの資料をまとめおく必要がありました。その役割のために彼らは霊的な導きを受けていたと思います。しかし、預言者ではなく学者となっています。真理を回復するとまでは期待できません。貴重なものであっても全幅の信頼とは言い切れないのです。

新約聖書になる前は

新約聖書は各福音書で地上でのイエス・キリストの教えと生涯について、使徒によって書かれています。

ルカの福音書を例にします。この福音書はルカの実体験に基づいていません。様々な記録からまとめた福音書です。そしてこれは手紙というか報告書のような書かれ方をしています。これは前編ともいえます。

後編は使徒行伝です。使徒の働きを記録しています。ここはルカ自身の実体験も入っています。この記録の目的は主に使徒パウロについて中心に書かれています。というか、前編・後編ともパウロについて語るためにあるようなものです。

これはこれでいいのです。大切な記録です。

しかし、私は不満です。

マタイはどうした? トマスはあれから? 彼らの使徒行伝はどこに行った? なかったとは言わせない。でも聖書にはありません。この経緯には聖なる業とはとても思えない生臭い事情があったのです。

繰り返しますが新約聖書も旧約聖書と同じく、最初から聖書としてまとまっていたわけではありません。各福音書は独立した本、もしくは文書です。手紙類は各手紙なのですからね。それらを集めて合本として、今の新約聖書となったわけです。

ということは候補となる対象はもっと多かったのです。それを取捨選択して今の形になったのです。それをどこで、誰が、どんな基準でというのは、これを読んでいる人なら興味がありますよね?

会議でまとめられた聖書

イエス・キリストの教えはユダヤ人にとっては新たな宗教というものではなく、失われていたユダヤ教の奥義を回復するものでした。それはユダヤ教であり、そのバージョンアップだったのです。

イエスの死後に異邦人への宣教が、きっかけはペテロによって、後にパウロによって本格的に進められます。異邦人にとっては耳新しい教えであり、まさにキリスト教という新たな宗教の登場でした。ただしローマ時代は迫害されていたのに、ローマの国教となるのです。しかしそれはローマ帝国の権威の生き残りをかけた生臭いものでした。

アタナシオス信条や二ケア・コンスタンティノープル信条によって教義や聖書の策定がなされましたが、そこには預言者の影はいません。当然ですね。使徒達はそのローマによって迫害され殺されたあとなのですから。

末日聖徒イエス・キリスト教会の預言者である、ジョセフ・スミスは聖書について、このように述べています。

私は最初の著者のペンによって書かれたままの聖書を信じる。無知な翻訳家、軽率な転写者、下心のある腐敗した祭司によって、多くの誤りが犯された。

預言者ジョセフ・スミスの教え

聖書は異邦人によって、また預言者ではない人達によって編纂され世に出ています。

それでも、聖書にはイエス・キリストの現世での働きを描いた福音書があります。それを外すと、何の宗教? になってしまいますからね。それにしても、福音書は使徒の数だけあったと思いますので、少ないです。それから・・・改変しようにも真理は残ってしまうものです。そういうものです。しかし、失われているものにより分り辛いものになっているのも事実です。

背教と回復

このような状況を、私たちは大背教時代と呼びます。

だからこそ真理の回復が必要なのです。1820年に神は示現というかたちで14歳のジョセフ・スミスの前に神とイエス・キリストが現れます。回復の預言者が召されたのです。

このブログにも度々引用しているモルモン書は、回復の証です。この聖典は、すべてが各時代の古代アメリカにいた預言者により書かれ、まとめられます。そして、預言者ジョセフ・スミスによって見出され、翻訳(英文)されたのです。モルモン書は徹頭徹尾、預言者の手を経て出されたものなのです。これが真実かどうかはとても大切なことです。

モルモン書の中では、イエス・キリストの教義について誤解のしようのない明確なことばで描写されます。気持ちいいくらい快晴状態です。それは聖書の過不足を補うものとなります。

もし、そのようなことがと、あなたが思われるようなら、試しにモルモン書を読んでみることをお勧めします。もしあなたが属する宗教がそれを禁じるよであるなら、そこに真理があるのかどうかを疑うくらいの出来事だと思います。真理のあるところには、人に自由を与えて動じないという特徴があると私は信じています。

聖文の探検方法

小さな地球儀とコンパス

モルモン書を読んで、それに感想を持つほどに理解されたなら、この聖文を読んでいる事でしょう。

見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。

モルモン書 モロナイ書10章3-5節

聖書から真理を読み取る鍵として、あなたがモルモン書を受け入れるかどうかを、直接神に尋ねるというチャレンジです。預言者が神の知識を得た源泉をあなたも得るかどうかのチャレンジなのです。

もしあなたが預言の御霊という力を得たなら、いかなるところでも真理を見出し、見分けることも可能となるでしょう。

あなたが書く聖書

日記帳とペン

あなたが真理を見出す過程を書いてください。それはあなたの聖文となり、子孫への道標になるでしょう。それは後に聖典に組み込まれるかも知れません。あなたの内面から湧き出す真理の言葉で、あなたの人生を満たし、豊かな人生を得てください。

スポンサーリンク
ラクダと荒れ野を旅する女性

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次