土葬でも火葬でも、神様はちゃんと拾ってくれる──信仰とは面倒をかける勇気

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土葬と火葬を象徴する土と光の中で、神の手が光を拾い上げているユーモラスな信仰のイメージ。

「神様、すまんね。こんがり焼けて骨だけになっちゃうけど、拾ってもらえます?」

──そんなことを心の中でつぶやいたら、少し笑えてきた。
人間って、神様にまで気を遣う生き物なんだなと思う。

けれど、その「気遣い」こそ、神との関係を深くしているのかもしれない。
神を畏れながらも、どこかで「面倒をかける自分」を受け入れている。

そこには、信仰の成熟のような優しさがある。

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地に返す行為としての信仰

もともとユダヤ教やキリスト教、イスラム教といった「復活を信じる宗教」は、みな土葬だった。 神が再び呼び起こすときのために、身体を「素材」として地に返すという感覚だ。

復活して肉体の素材が散逸しないようにという、神様への心遣いのつもり。

それは、神が再創造しやすいように「材料をそろえておく」ようなもの。
まるで、子どもが母親に「これ片づけておくね」と言うような、少し可愛らしい信心だった。

火葬という“現代の信仰”

だが時代は変わり、私たちは火葬を選ぶ。
土地の事情もあるし、衛生や法の問題もある。 それでも心のどこかで、神に一言かけたくなる。

「神様、すみませんね。焼けちゃうけど、あなたなら拾ってくれますよね?」

──これを無神経な冗談と思うなかれ。
むしろ、神への深い信頼がある人にしか出てこない言葉だと思う。

神秘学的に言えば、それは“創造の流れに委ねる”態度。

火は破壊ではなく、精錬。物質が光へと変わる通過儀礼でもある。

復活とは、神が光を拾い集めること

神が復活させるのは、単なる肉体ではない。
記憶や思い、他者との絆──その人の「光の構造体」そのものだ。
それらは燃えても消えない。

火葬はむしろ、魂を精錬する儀式のようなものかもしれない。

だから、土に還るのもよし、灰になるのもよし。
神様はどこにあっても拾い上げる。

神は万能だからではなく、愛がそうさせるのだ。

面倒をかける勇気

信仰とは、神を信じるだけではなく、神に甘える勇気でもある。
「神様、ちょっと面倒かけますけど、よろしくお願いします」
と言える人は、 もはや信仰を“理屈”ではなく“関係”として生きている。

神秘とは、厳粛なだけの世界ではない。
そこには人間味があり、笑いがあり、照れくささもある。

神を信じながら「すまんね」と言える信仰── それこそが、ほんとうに神を知る者の姿ではないだろうか。

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土葬と火葬を象徴する土と光の中で、神の手が光を拾い上げているユーモラスな信仰のイメージ。

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