【日月神示】光の道を肚につなげる重要性「春の巻 第1帖 その6」

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教えは局部的、時、所で違うのぢゃ。迷信となるぞ。肚が神であるぞ。

[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第27巻 春の巻 第1帖から

私たちの人生は、時に暗闇に包まれた迷いの道を歩むことがあります。

しかし、聖なる光がその道を照らし、希望と導きを与えてくれることを信じることはできるでしょうか?

この記事では、聖典の教えと預言を通じて、光の道を見つけるためのヒントや洞察を探求します。

あなたの心に響くメッセージを見つけ、一緒に光の中へと歩み出しましょう。

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目次

教えには原則があり意味や価値があるが、優先順位によって変化する。

十戒には「殺してはいけない」という戒めがある。

しかし、罪悪に対しては「死罪」があった。

神は人を殺すように命じるのか?

刑罰としての「死刑」は殺人という犯罪とは意味が異なる。

原則や戒めには上位にある原則が存在する。

神は生命を創造し再生できる。

人にはできない。

神と人の立場は異なる。

神のための働きには「神の立場」への理解が必要。

その手段が「肚」だ。

旧い教えからアップデートできなければ支障が出てくる。

教えが迷信となるとは?

尊い教のはずが迷信となって、むしろ障害となってしまう例はたくさんある。

古い革袋と新しい革袋

だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

新約聖書 日本聖書協会 口語訳 マタイの福音書9章16-17節

教えは人の常識で解釈されていき、新たな展開の出足をくじこうとする障害となってしまう。

モーセの律法に固執しメシアを見出すことができなかった

エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。

新約聖書 日本聖書協会 口語訳 使徒行伝13章27節

メシアについて預言した預言者の言葉を安息毎に指導者は読み、民は聞いていたはずなのにイエス・キリストがメシアだと解らず罪人として刑に処した。

教えは生かされなかった。

神との断絶は続いているが・・・

現世では神と直接会うことははない。

しかし、肚を通して内で神とつながることができる。

現世では神とは肚(聖霊の賜物)のこと。

肚は、自分の内の神につながっている。

また、神100%でできている我々は神として創られた存在

人は神に至ることのできる素質を持った存在なのだ。

まとめ

激動の時代に眠ったまま淘汰されるか、目覚めて波乱万丈に生きるか選べる。

淘汰された方が楽という考えもあるから、悪か善ではない。

目覚めておきたい人なら「日月神示」は目を通して啓示を自分のものにしておくことを強く勧めます。

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