人は見たいものを見る。
聞きたいものを聞き、信じたいものを信じる。
だが日月神示は、それだけではないことを語る。
神’に目を向ければ神’が映り、神’に耳を向ければ神’が聞こえ、神’に心を向ければ神’が心に映るという。
それは単なる比喩ではない。
神示は、人と神との交わりがどのように起こるのか、その仕組みの一端を明かしているのである。
に目を向ければ
がうつり、
に耳向ければ
がきこえ、
に心向ければ心にうつる。
掃除の程度によりて
のうつりかた違うぞ。
掃除出来た方から
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第1巻 上つ巻 第10帖の姿うつるぞ、それだけにうつるぞ。
神を見る準備はできているか
神は常に語りかけている。
しかし聞こえる者と聞こえない者がいる。
神は常に働いている。
しかし見える者と見えない者がいる。
その違いは神が近いか遠いかではなく、自らの心の状態にある。
上つ巻10帖は、神との交わりが心の掃除によって深まることを示している。
逐次解説|神はどのように人に語りかけるのか
神’は心に映る
に目を向ければ
がうつり、
に耳向ければ
がきこえ、
に心向ければ心にうつる。
この一文は、啓示というものがどのような形で人に届くのかを開示している。
経験したことのある人なら「ああ、そんな感じだ」と思うだろう。
聖霊による「みたま」は、言葉だけではない。
映像でもあり、感情でもあり、理解でもある。
まるで心の中に直接届くマルチメディアのようなものだ。
神’に心を向けると、心の中に神’の思いが映る。
すると、それまで理解できなかった深遠な真理が突然わかることがある。
それは世界を神が創造した根幹の仕組みに触れるからである。
神の視点に近づくことで、人は神の見ている世界を少しだけ共有する。
その体験は時に、この世を離れているような感覚を伴う。
すごいものを見たり聞いたりしていた印象はあるのだが、目覚めると詳細が思い出せないこともある。
だが繰り返すうちに、目覚めた後もかなりのことを思い起こせるようになる。
神’は外から語りかけるだけではない。
心そのものを通して語りかけるのである。
神の基準は人には測れない
掃除の程度によりて神’のうつりかた違うぞ。
ここでいう掃除とは、単なる善行の数ではない。
まして人からどう見られるかでもない。
掃除の程度を決めるのは神である。
神から見ての清さ。
神から見ての誠実さ。
神から見ての相応しさ。
それによって神’の映り方が変わる。
人間は外側を見る。
神は内側を見る。
だから人が「あんな人に神が働くはずがない」と思っている人物に、不思議と力が与えられていることがある。
生活態度が乱れているように見えても、祈るときだけは真っ直ぐ神を向いている人もいる。
そのとき確かに「みたま」が乗ることがある。
見ているところが人とは違うのだろう。
本当に神の持つ基準は人には理解できない。
だからこそ人を裁くのではなく、自らの心の掃除に励むべきなのである。
心の鏡に神’の姿が映るとき
掃除出来た方から
の姿うつるぞ、それだけにうつるぞ。
聖書には人の身体を神殿にたとえた言葉がある。
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 コリント人への第一の手紙3章16節
人の身体は神殿そのものだという。
神が宿る可能性を持つ場所である。
それだけではない。
人の霊そのものが神聖であり、神の子としての性質を持っている。
神殿が埃まみれの姿は想像しにくいだろう。
掃除され、整えられ、静けさを保った場所だからこそ、本来の役割を果たせる。
人も同じである。
心の掃除が進むほど、鏡のようになった心に神’の姿が映る。
それは神の子として新しく生まれ変わる過程でもある。
神’の姿が映る者は、その影響力の及ぶ範囲で世界を書き換える力を持つ。
それが神’のいう「お蔭」である。
この力は周囲に良い影響を与える。
だが共有することはできない。
分け与えることもできない。
ましてや売り渡すこともできない。
それは神と本人との関係の中で生まれるものだからである。
もし欲しければ、各々が自ら心の掃除をして迎えなければならない。
福音書の十人の乙女のたとえも同じことを語っている。
花婿を待つ十人の乙女のうち、五人は油を備えていたが、五人は備えていなかった。
備えていなかった者たちは油を分けてほしいと願ったが、それはできなかった。
各々が自分で準備しなければならなかったのである。
心の掃除も同じだ。
誰かが代わりにやることはできない。
神’の姿を映す準備は、自ら整えるしかないのである。
神は今も映ろうとしている
神’は特別な人にだけ現れるのではない。
神’は常に映ろうとしている。
聞こえようとしている。
語りかけようとしている。
問題は神ではなく、受け取る側にある。
鏡が磨かれれば磨かれるほど、神’の姿は鮮明になる。
上つ巻10帖は、人が神に近づく道を示しているのではない。
本来そこにいる神’に気づくための方法を示しているのである。
日月神示を原文から読む
日月神示は断片だけを読むと意味が分かったようで分からない。
だが前後の流れを追うと、一つひとつの神示が互いにつながりながら語られていることが見えてくる。
特に上つ巻は、洗濯・立て替え立て直し・身魂磨きという日月神示全体の骨格を示している重要な巻である。
原文に直接触れながら読むことで、解説だけでは受け取れない響きが見えてくるだろう。


コメント