人は毎日食べて生きている。
だが日月神示は、「何を食べるか」よりも「どう頂くか」が大切だと語る。
どれほど豊かな食事をしても、身魂が痩せている人がいる。
反対に質素な食事でも、身魂が豊かに育っている人もいる。
その違いはどこにあるのか。
上つ巻第17帖は、食べ物と霊性の深い関係について語っている。
この世はみな神のものざから、臣民のものというもの一つもないぞ、
お土からとれた物、みな先ず神に供えよ、
それを頂いて身魂を養うようになっているのに、神には献げずに臣民ばかり食べるから、いくら食べても身魂ふとらぬのぞ、
何でも神に供えてから食べると身魂太るぞ。
今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第1巻 上つ巻 第17帖
食べ物は肉体だけでなく身魂を養う
日月神示は、食べ物を単なる栄養補給として見ていない。
食物は神から与えられたものであり、肉体だけでなく身魂を養う働きを持つという。
現代人は食べる量や栄養価には関心を向ける。
しかし「感謝して頂く」という行為には無頓着になりやすい。
第17帖は、その忘れられた霊的な意味を思い出させてくれる神示である。
逐次解説|食べ物の背後にある神の恵み
この世の真の所有者は誰なのか
この世はみな神のものざから、臣民のものというもの一つもないぞ、
世界の全ては、霊的なバックボーンに至るまで神の栄光によってできている。
あなたの肉体も霊も神によって造られた。
土地も空気も水も太陽も、本来は人間の所有物ではない。
いってみれば、すべての所有者は神ということ。
人は「自分の物」と考えがちだが、本当は神から一時的に預かっているに過ぎない。
この視点に立つ時、感謝の心が自然と生まれてくる。
神に供えるという霊的な作法
お土からとれた物、みな先ず神に供えよ、
農作物や山菜なども、まず神に供えなさいという。
昔から日本には初穂を神に捧げる習慣があった。
収穫物の最初の実りを神に返すことで、神への感謝を表したのである。
クリスチャンであれば、食前の感謝の祈りを通して食物を祝福する。
これもまた、一旦は神に捧げる行為と言えるだろう。
形よりも大切なのは心である。
神を忘れず、神から与えられたものとして受け取ることが供えるという行為の本質なのである。
身魂を肥やす食べ方と肉体だけを満たす食べ方
それを頂いて身魂を養うようになっているのに、神には献げずに臣民ばかり食べるから、いくら食べても身魂ふとらぬのぞ、
捧げて神が触れた食物を下げて我々がいただくとき、物だけではなく霊的なものも併せていただくことになる。
それは身魂を肥やす働きをする。
「いただきます」も神に心を向けてするなら同じ効果を持つ。
感謝もなければ、人は表面的なものだけを受け取る。
肉体は満たされる。
しかし霊は満たされない。
血が富んでも、肉体が死ぬとこの仕組みは用をなさなくなる。
血液は現世での命をつなぐものである。
だが同時に、それは劣化し、やがて肉体を滅ぼす原因ともなる。
アダムの過ちによる肉体の死という結果は即死ではなく、血のシステムを加えることで一定期間の延命措置が施された状態とも考えられる。
しかし死という結果そのものは変わらない。
一方で霊の栄養は違う。
それは肉体の死を超えてあなたを育てる仕組みなのである。
感謝の祈りが身魂を育てる
何でも神に供えてから食べると身魂太るぞ。
せめて食物を摂る前に感謝の祈りを通していただこう。
それだけでも食事は変わる。
神から与えられたものとして受け取る時、食卓は祭壇となる。
そして食物と共に霊的な肥やしを受け取ることができる。
身魂を育てるとは、こうした日々の積み重ねの中で行われるのである。
本当に必要な量は今より少ない
今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。
そうして食物をいつくしみ、よく噛み、身に近づけて飲み込むなら、身は早く足りて、多くを食べなくても満ち足りることができる。
現代は早食いと過食の時代である。
だが神示は「今の半分で足りる」と語る。
量ではなく、受け取り方の問題なのである。
「いただきます」もなく、ただガツガツ食べるのは神の臣民のすることではない。
あなたの心の奥で、あなたの霊が悲しんでいるかもしれない。
霊を活かす生き方の秘訣が、こんな身近なところにも隠されているのである。
身魂は感謝によって育つ
上つ巻第17帖は、食べ物の話をしているようでいて、実は身魂の育て方を語っている。
どれほど豊かな時代になっても、人は物だけで生きることはできない。
感謝を忘れれば、肉体は満たされても身魂は痩せていく。
反対に、神を覚え、神に供え、感謝して頂くならば、同じ食事でも身魂は育っていく。
「いただきます」の中には、想像以上に深い意味が込められているのである。
日月神示をより深く学ぶために
上つ巻は、これから訪れる大洗濯だけでなく、人がどう生き、どう身魂を磨くべきかを繰り返し説いている。
第17帖もまた、食事という日常の行為の中に霊的成長の道があることを教えている。
原文全体を通して読むことで、こうした一節一節がさらに深くつながって見えてくるはずだ。


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