「もし神’が本当に存在するなら、なぜ世界はこんなにも乱れているのか。」
これは古今東西、多くの人が抱いてきた疑問である。
悪人が栄え、善人が苦しむ現実を見ると、「神’は本当におられるのか」と問いたくなる。
しかし上つ巻第20帖は、その問い自体が人間の限られた視点から生まれていることを示す。
神’には人の言う善も悪もない。
神’の視点を知ることで、この世の見え方そのものが変わってくるのである。
がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬはずざと申す者 沢山あるが、
には人の言う善も悪もないものぞ。
よく心に考えて見よ、何もかもわかりて来るぞ。
表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まればわからんことになるぞ、
心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、そこの道理わからずに理屈ばかり申しているが、理屈のない世に、
の世にして見せるぞ、
言挙げせぬ国とはそのことぞ、
理屈は外国のやり方、
の臣民言挙げせずに、理屈なくして何もかもわかかるぞ、
それが
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第1巻 上つ巻 第20帖の一部の真の民ぞ。
神’の視点で世界を見ると善悪の意味が変わる
人は自分の経験や価値観を基準に善悪を判断する。
しかし神’は永遠という時間軸から世界を見ておられる。
だから、人には理不尽に見える出来事も、神’の計画の中では必要な経験となることがある。
上つ巻第20帖は、「神’を理解しようとするなら、まず自分の物差しを手放しなさい」と語りかけているように思える。
逐次解説|神’の善悪は人の善悪とは違う
なぜ悪人は栄えるのか
がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬはずざと申す者 沢山あるが、
には人の言う善も悪もないものぞ。
この疑問は、現代人だけのものではない。
旧約聖書でも預言者エレミヤは、神に率直に問いかけている。
悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。
旧約聖書 日本聖書協会 口語訳 エレミヤ書12章1節の一部
まさに、「なぜ悪人が裁かれず、そのまま繁栄しているのですか」という嘆きである。
その答えの一つを、モルモン書は示している。
「すべての事には反対のものがなければならない。」
それは、すべての事物には反対のものがなければならないからである。
末日聖徒イエス・キリスト教会 モルモン書 第二ニーファイ書 2章11節の一部
神は人に善悪を選ぶ自由を与えられた。
そのようにして、主なる神は思いのままに行動することを人に許された。しかし人は、一方に誘われるか他方に誘われるかでなければ、思いのままに行動することはできなかった。
末日聖徒イエス・キリスト教会 モルモン書 第二ニーファイ書 2章16節
「人は自由である。……自由と永遠の命を選ぶことも、束縛と死を選ぶこともできる。」
そのため、人は肉においては自由であり、人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は、すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも、あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は、すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。
末日聖徒イエス・キリスト教会 モルモン書 第二ニーファイ書 2章27節
我々は実践で学ぶ現世という学校にいる。
反対のものがあることで、人は「選ぶ」ことになる。
- 困難か楽か。
- 善か悪か。
- 肉か霊か。
- 救いか地獄か。
選びの積み重ねが、人生の結果を積み重ねていく。
この世は消え去るもの、過ぎ去るもの、終わりがある世界である。
神’は基本的に、人の自由意思を尊重され、人のなすままに任せておられる。
ただし世界という庭園の庭師として、必要な時には枝打ちを行い、善悪の均衡が完全に崩れないよう調整しておられるのである。
心に考えることで神’の視点が見えてくる
よく心に考えて見よ、何もかもわかりて来るぞ。
私たちは、この世だけ、今だけという限られた視点で物事を判断してしまう。
しかし、その裏には目に見えない世界の仕組みがある。
だからこそ、全体を見渡す神’の視点で見ることで初めて理解できることがある。
啓示を通して神’の知恵の一端に触れることで、人は少しずつ視座を高めることができる。
「心に考える」とは、単に悩み続けることではない。
神’ならどう見られるのかを求め続けることなのである。
表と裏を取り違えれば善悪も逆転する
表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まればわからんことになるぞ、
神’の裁きは悪なのだろうか。
その裁きによって、人が命を落とすこともある。
しかし神’は、その命をも贖うことがおできになる。
義人が受けた理不尽は、永遠の視点では必ず報われる。
人の限られた視点で、神’の善悪を裁くことはできない。
理解できないことがあるなら、まず神’を信頼して受け入れることも必要なのである。
表と裏を取り違えれば、まったく逆の意味に見えてしまう。
神’の御業を人間の価値観だけで判断する危うさを、この一節は教えている。
神’心になれば理屈を超えて真実が見えてくる
心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、そこの道理わからずに理屈ばかり申しているが、理屈のない世に、
の世にして見せるぞ、
神’の心と幾分かでも同期できれば、物事の意味は自然と理解できる。
ところが人は、自分の理解の範囲だけで神’を論じようとする。
そのため、いくら議論を重ねても、本質から外れた話になってしまうことが少なくない。
神’心とは、知識が増えることではない。
神’と同じ方向を向き、神’が見ておられるものを見ようとする心である。
もし人々が神’心を持つようになれば、互いに争って理屈を戦わせる必要もなくなるだろう。
さらに悪が淘汰されれば、理不尽な世の中は劇的に変化する。
もちろん人の未熟さが完全になくなるわけではない。
しかし互いに調整し、正し合える社会へと近づいていく。
それが神’の世へ向かう姿なのだろう。
言挙げせぬ国とは神’を理解する国である
言挙げせぬ国とはそのことぞ、
「言挙げ」とは、自分の理屈や正しさを言い立て、論争することである。
日月神示は、それ自体を否定しているのではない。
理屈を競い合うことよりも、神’の在り方を理解することに力を注ぎなさい、と語っているのである。
視野が広がれば、善悪の判断さえ変わってくる。
また真偽についても、人の目には嘘に見えたことが、後になって現実となることもある。
表面だけを見て決めつけることの危うさを、この一節は教えている。
理屈だけでは神’の仕組みは理解できない
理屈は外国のやり方、
の臣民言挙げせずに、理屈なくして何もかもわかかるぞ、それが
の真の民ぞ。
「外国は悪」と言ってるわけではなく、「論理中心・言葉で決着をつけようとする姿勢」を対比的に表現している流れで「言挙げせぬ国」と対している表現になっている。
よく使われる聖約の民に対する「異邦人」に近い意味かと思われる。
神事を人間の議論だけで解き明かそうとしても、迷宮をさまようだけである。
神’の視点は、人間の論理を超えて世界全体を見渡している。
だから神’の視点に近づくことができれば、預言だけでなく、この世界の奥にある仕組みや成り立ちまで理解できるようになる。
あれこれ論じ続けることは疲れる。
議論に終始するよりも、神’の導きを求めながら成り行きを見守る方が、かえって真実に近づけることもある。
もっとも、それだけでは救いを逃す恐れもある。
神’が差し伸べられる助けには、自ら応じなければならない。
救いは、待っているだけでは手に入らないのである。
神’の真の民とは未来の神を目指す者
それが
の真の民ぞ。
神’と一体になること。
それが臣民の目的である。
人は神’の子である。
だから神’と同じ性質を受け継ぎ、神となる資質と可能性を持っている。
神々とは、単なる天使の別名ではない。
言わば「未来の神」である。
もちろん、その機会を逸する可能性もある。
未来は神’が一方的に決めるものではなく、自らの選びによって形づくられていく。
そこには神’の助けがある。
しかし神’は決して無理強いはされない。
神’の真の民とは、神’と同じ方向を向き、神’のようになろうと歩み続ける者なのである。
善悪を超えた神’の視点に近づくことが身魂みがき
上つ巻第20帖は、「悪があるから神’はいない」という考えを否定している。
この世界は、人が自由意思によって選び、成長するための場所である。
だからこそ反対のものが存在し、善悪の選択が与えられている。
そして神’は、そのすべてを永遠という視点から見守っておられる。
理屈だけでは見えない世界がある。
神’心に近づき、その視点で世界を見ること。
それこそが日月神示の語る「身魂みがき」の一つなのである。
日月神示を原文から読み解くために
日月神示は、一節だけを切り取って読むと誤解しやすい神示である。
前後の流れや他の帖とのつながりを読み進めることで、初めてその真意が立体的に見えてくる。
原文を手元に置きながら読むことで、「身魂みがき」「岩戸開き」「神’の仕組み」といった重要な言葉も、より深く理解できるようになるだろう。
興味を持たれた方は、ぜひ原本をまとめた書籍も手に取って読み進めていただきたい。


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