上つ巻第二十一帖は、外国の侵攻や岩戸開きについて語ったあと、最後に突然「富士山」について極めて具体的な指示を与えている。
それは単なる信仰上の話ではない。
「富士から三十里離れた場所へ祀れ」という、避難指示とも受け取れる内容なのである。
富士山はいよいよ動く。
この神示は、それを前提として人々へ備えを促しているようにも読める。
まずは原文を見てみよう。
富士から三十里より離れた所へ祀りてくれよ、富士にも祀りてくれよ、富士はいよいよ動くから、それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りておいてくれよ。
富士は
の山ざ、いつ
を噴くかわからんぞ、
は噴かんつもりでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りてくれよ、
神は構わねど、臣民の肉体大切なから、肉体もなくてはならんから、そうして祀りてくれ。
まつりまつり結構ぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第1巻 上つ巻 第21帖の一部
富士山は預言の中心に置かれている
第二十一帖は、外国の侵攻や岩戸開き、そして神の世の到来を語った最後に、富士山について具体的な指示を残している。
つまり富士山の変動は、一地方だけの問題ではなく、神の仕組全体に関わる重要な出来事として位置付けられているのである。
ここからは、一節ずつ読み解いていこう。
逐次解説|「三十里離れよ」という意味
富士から三十里離れた場所へ祀るよう命じられている
富士から三十里より離れた所へ祀りてくれよ、富士にも祀りてくれよ、富士はいよいよ動くから、それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りておいてくれよ。
要するに、拠点を富士山から三十里、およそ半径120kmより外へ置きなさいという指示である。

「祀る」とは、以前の記事でも解説したように、単に祭壇を設けることではない。
神を中心に据え、その拠点を築くという意味でもある。
つまり神の働きの中心となる場所を、当面は富士山から十分離れた場所へ置けという意味に読める。
一方で、「富士にも祀りてくれよ」とも命じられている。
これは富士山にも何らかの結界、あるいは神の拠点となるものを残しておけという意味にも受け取れる。
富士山が動き出すとは、大天災を意味する。
しかし、それさえも神の采配の一部でしかない。
また同じ第二十一帖では、外国が攻めて来る預言も語られていた。
地震活動も含め、敵が地下活動の巣へ兵器を密かに打ち込んでいる可能性も考えられる。
それは以前から考察している、神器の一端であるプラズマを技術として利用した兵器ではないかと私は見ている。
以前からこの兵器は使われていた形跡があるが、その効果は限定的だった。
要するに、日本各地へ張られた結界によって弾かれていたのである。
兵器本体はアメリカに設置され、衛星システムを利用して世界中で運用されているのではないだろうか。
科学至上主義の考え方から、当初は科学技術だけによる運用だったと思われる。
しかし結界の防御効果を無視できなくなり、日本国内で呪術師やスパイを利用して結界破りを行ってきた可能性も考えられる。
その結果、以前より幾分か兵器の威力は増しているのではないだろうか。
それでも神は、それをただ防ぐだけではない。
過去に各地へ設置した結界を利用して被害を抑えながらも、人類への警告として一定の現象を許容し、その働きを神の計画の中へ組み込んでいるように思えるのである。
犠牲は多く出るだろう。
しかし神にとっては、その者たちを懐へ迎えるだけのことである。
もちろん無作為ではない。
しっかりと人選をしたうえで容認しているのではないかと私は考えている。
また富士山噴火時には、大規模な雷が発生し、暗黒の霧──厳密にはミストではなく、光とは反対の性質を持つプラズマ現象──や、動かないピンク色の雲、あるいは炎のように見える現象が発生する可能性もある。
私は、このピンク色の炎には、ある種の人や物を神隠しし、別の空間へ移動させる性質があると考えている。
富士にも祀るよう命じたのは、この現象が起こる徴を示す意味もあるのかもしれない。
その時、人もまた神隠しとなる可能性がある。
どこへ導かれるのかは、人知では計り知れず、神のみが知ることである。
富士山噴火は神示でも警告されている
富士は
の山ざ、いつ
を噴くかわからんぞ、
2026年6月にも富士山周辺で群発地震が報じられ、「噴火が近いのではないか」と話題になった。
もちろん地震が直ちに噴火へ結び付くとは限らない。
しかし日月神示自身も、富士山噴火の可能性を明確に認めている。
「いつ噴くかわからない」という一文は、決して軽い言葉ではない。
これは単に恐怖を与えるための言葉ではなく、臣民に心の洗濯を急ぐよう促す神からの警告なのであろう。
神はできれば噴火させたくはない
は噴かんつもりでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りてくれよ、
ここから読み取れるのは、神は本来、富士山を噴火させたいわけではないということである。
しかし状況次第では、噴火という手段を取らざるを得ない。
臣民の洗濯が進まなければ、その促しとして噴火が用いられる可能性もある。
神示からは、その時々の状況に応じて臨機応変に導こうとする神の姿勢もうかがえる。
「もうよい」と神から示されるまでは、拠点は避難を継続するという意味にも読める。
神は人の肉体を大切にしている
神は構わねど、臣民の肉体大切なから、肉体もなくてはならんから、そうして祀りてくれ。
神にとって、日本の地形が変わること自体は大した問題ではない。
しかし、その土地で暮らしている人々の命は別である。
だからこそ富士山を恐れ、警戒し、距離を取るよう勧告しているのである。
それでも警告を聞かない臣民を見切ってでも成し遂げるべき、大きな神の計画がある。
その厳しさと慈しみの双方が、この一節には込められているように思える。
「まつりまつり結構ぞ」が締めくくるもの
まつりまつり結構ぞ。
最後に重ねて語られる「まつり」。
これは単なる祭礼ではない。
神を中心に据えて生きることである。
日月神示全体を通して繰り返される、「何を人生の中心に置くのか」という問いへの答えでもある。
人間中心ではなく、神中心。
その姿勢こそが、第二十一帖全体の締めくくりなのであろう。
富士山よりも大切なのは、神を中心に置くことである
第二十一帖は、富士山噴火という衝撃的な預言で締めくくられている。
しかし神示が本当に伝えたいことは、災害そのものではない。
神を中心に据えて生きる者は、たとえ世が大きく揺れ動く時代になっても、神の導きの中に置かれるということである。
富士山は、その警鐘を鳴らす象徴なのであろう。
原典に触れながら日月神示を読み解こう
日月神示は、一節だけを読んでも全体像は見えてこない。
前後の帖や神示全体とのつながりを読みながら考察することで、その意味が少しずつ立体的に浮かび上がってくる。
ぜひ原典も手元に置き、自分自身でも読み進めながら考察を深めていただきたい。


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