日月神示には、人間だけではなく「神」さえも知らない領域があると記されている。
多くの人は、「神ならば、すべてを知っている」と考える。しかし本帖では、その常識そのものを覆すような神示が示されている。
もし世の中に数多く存在する神々にも、それぞれ知り得る限界があるとしたら、本当に求めるべき存在は誰なのだろうか。
今回は、日月神示『上つ巻』第二十九帖の前半を通して、「元の神」とは誰を指すのか、そして真理へ至る道について考察していく。
この世が元の神の世になるということは、どんな神にもわかっておれど、どうしたら元の世になるかということわからんぞ、
神にもわからんこと人にはなおわからんのに、自分が何でもするように思うているが、サッパリ取り違いぞ。
やって見よれ、あちへ外れこちへ外れ、いよいよどうもならんことになるぞ、
最後のことはこの
でないとわからんぞ。
いよいよとなりて教えてくれと申しても間に合わんぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第1巻 上つ巻 第29帖
ここで問われているのは、単にどの宗教や教えを信じるかという問題ではない。
自分が従っている存在や教えが、本当に大元の神’へつながっているのか。そのことを、自ら祈り、求め、見極める必要があるのである。
神々にも限界がある――本当に求めるべき神’とは
第二十九帖は、「神にも分からないことがある」という、非常に衝撃的な内容から始まる。
しかし、これは神そのものを否定する神示ではない。
むしろ、あらゆる存在の根源である神’と、そこから派生し、それぞれの役割を担う神々との違いを明らかにしている神示である。
神と名乗る存在であっても、すべてを知っているとは限らない。霊的な力や知識を持っていたとしても、大元の仕組から遠ければ、最後の真理までは見通せないのである。
だからこそ、誰の言葉を信じ、どこへ向かうのかが重要になる。
逐次解説|神々の限界と真理へ至る道
「元の神」とは、すべての根源なる神’を指している
この世が元の神の世になるということは、どんな神にもわかっておれど、どうしたら元の世になるかということわからんぞ、
元の神とは、クリスチャン的に言えば天父であり、その代理であるイエス・キリストでもある。
この解読記事では、原文では図形で記される
を「神’」と表記して区別している。
一方、日月神示の原文には、ところどころ普通の「神」という表記が出てくる。この表記の違いには、何らかの意味があると感じている。
「神」と書かれている場合は、名指しこそしていないものの、大元の神’とは異なる神々、いわば雑多な神々を示しているように思える。
ただし、それらの神々が、すべて悪神であるという意味ではない。
元の神、すなわち神’に根差してはいるものの、大元から遠く、真理の全体には届いていない存在が「神」として表されているのではないだろうか。
神’から何らかの使命や力を与えられているとしても、すべての仕組を理解しているわけではない。根差してはいても遠く、的外れな部分を持つため、真理に迫り切れていないのである。
どの神も、自らこそ主流であると考え、自らが導く世界こそ、やがて訪れる理想の世であると考えているのかもしれない。
しかし神示では、「元の神の世になる」とは書かれていても、それぞれの神が、自分の世になるとは言い切れていない。
そこには、自分も大元の仕組を完全には知らないため、言葉を濁しているような印象が否めない。
もしあなたが真理の在り処を探しているのなら、この表記の違いは、大きな目安となるだろう。
神が語るから正しいとは限らない
神にもわからんこと人にはなおわからんのに、自分が何でもするように思うているが、サッパリ取り違いぞ。
半端な神は、最後の仕組まで理解していない。
霊感を与えることはできるかもしれない。人間には見えないものを見通し、未来の一部を示すこともあるかもしれない。
しかし、その神も普通に人の形をした人格的存在であるならば、知識や理解には自ずと限界がある。
霊的な存在だからといって、無限の知識を持っているわけではないのである。
さらに、人が神の教えを受け取り、それを自分なりに解釈して伝えようとすると、人間の思いや欲が入り込む。
そこには名誉欲や支配欲、組織を大きくしたいという思い、さらには儲け心まで混ざることがある。
人が導き出した神の姿や教義には、人間側の都合が反映されやすい。
そのため、本来の神意とは異なる取り違えが、普通に起こるのである。
神の名によって語られたから正しいのではない。霊感を受けた者が語ったから、すべてが真理になるのでもない。
大切なのは、その教えが本当に大元の神’へつながっているかどうかを、祈りと啓示によって自ら確かめることである。
中途半端な真理ほど、人を深く迷わせる
やって見よれ、あちへ外れこちへ外れ、いよいよどうもならんことになるぞ、
神に従おうとすること自体は悪いことではない。
しかし、そこに中途半端な真理が混ざっていると、人はかえって深く迷うことになる。
すべてが間違っている教えなら、比較的早く違和感に気付くことができる。
ところが、一部に真理が含まれている教えは厄介である。
正しい部分があるために、全体も正しいと思い込み、違っている部分に気付きにくくなるからである。
あちらへ外れ、こちらへ外れ、それでも自分は正しい道を進んでいると思い続ける。
そして、いよいよどうにもならなくなった時、初めて自分が道を外れていたことに気付くのである。
行き着く先が呆然自失ということにならないように、真理を求め、見つけ出すことを忘れないでほしい。
今いる場所を絶対視せず、常に神’へ問い続けることが必要である。
たとえ今は遠回りをしていたとしても、真剣に真理を求め続ける者は、必ず神’が用意した道へと合流できる。
だから、一度立ち止まって、自分自身へ問い掛けてほしい。
今、あなたが居る場所は、本当に大丈夫だろうか。
最後の仕組は神’から直接受け取るしかない
最後のことはこの
でないとわからんぞ。
最後の仕組は、この神’でなければ分からない。
つまり、人から聞いた知識だけでは足りないということである。
神だから、預言者だから、霊能者だからという肩書きだけで、その言葉を鵜呑みにしてはいけない。
神の情に流されることもあってはならない。
瞑想や祈りを通して、自ら啓示を受け、それを自分自身のものにしてほしい。
大元の神’とのつながりを得るよう努めよう。
最後まで道を誤らずに歩めるかどうかは、そのつながりを持てるかどうかに掛かっている。
誰かの言葉を信じるだけではなく、自分で神’から確かめる。
その積み重ねが、最後の仕組を理解する唯一の道なのである。
「その時」が来る前に真理を求めてほしい
いよいよとなりて教えてくれと申しても間に合わんぞ。
神示が現実となり、多くの神々さえオロオロするような事態になったなら、このサイトで書いてきた解読を思い起こしてほしい。
その時までには、解読の精度をもっと高めておくつもりである。
もちろん、現時点の解読も完成形ではない。
解読者である神(ミツゲ)自身、まだまだ未熟であり、解読をかなり外している部分もあると思っている。
それでも、方向性だけは間違っていないという自負がある。
その根拠は、日月神示だけではない。
解き明かしへ至るための重要な鍵を持っているという確信がある。
何の因果か、このテーマと四十年以上向き合い続けてきた。
これは、その歳月を掛けて積み重ねてきた集大成でもある。
だからこそ、本当に必要になる前に、自分自身で祈り、考え、真理を求め始めてほしい。
まとめ|真理は神’との直接のつながりによって見いだす
第二十九帖は、「神だから正しい」「霊的だから真理である」という思い込みを覆す神示である。
神々にも、それぞれ役割と限界がある。
最後の仕組を知ることができるのは、大元の神’だけである。
だから私たちは、人の権威や組織に頼り切るのではなく、自ら祈り、自ら求め、自ら啓示を受ける努力を続けなければならない。
真理を真剣に求め続ける者は、たとえ遠回りをしていても、必ず神’が用意した道へ導かれる。
その時になって慌てるのではなく、今この瞬間から神’とのつながりを深めていきたい。
この記事のポイント
- 「神」と「神’」は日月神示の中でも区別されている可能性がある。
- 神々にも知り得る限界があり、最後の仕組は神’のみが知っている。
- 中途半端な真理ほど、人を迷わせる危険がある。
- 瞑想と祈りによって、自ら神’から啓示を受ける姿勢が大切である。
- 今のうちから真理を求める歩みを始めることが重要である。
日月神示を原典から読む
日月神示は、一節だけを切り取って読むよりも、前後の帖との流れを追いながら読むことで理解が深まる神示である。
また、原文そのものに触れることで、現代語訳だけでは伝わりにくい言霊や独特の表現を味わうこともできる。
興味を持たれた方は、ぜひ原典も手元に置き、本文と照らし合わせながら読み進めることをおすすめする。


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