日月神示には、神の世への立て替え立て直しが「比喩ではない」と繰り返し告げられている。
多くの人は、それを精神世界の話や象徴的な教えとして受け止める。しかし本帖では、その考えを真っ向から否定している。
住む場所、食べ物、生活、文明――当たり前と思っているものが一度すべて失われる世界。その極限状態の中で、人は何を信じ、何を選ぶのか。
今回は上つ巻第36帖を読み解きながら、終末に訪れる現実と、そこで問われる身魂の在り方について考察していく。
元の神代に返すというのは、喩えでないぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第1巻 上つ巻 第36帖
穴の中に住まなならんこと出来るぞ、
生の物食うて暮らさなならんし、臣民取り違いばかりしているぞ、
何もかもいったんは天地へお引き上げぞ、
我の欲ばかり言っていると大変が出来るぞ。
神の世への立て替えは文明を一度失うところから始まる
「元の神代に返す」という言葉を、精神論や理想論として受け止めてしまう人は少なくない。
しかし神示は「喩えでないぞ」と明言している。
文明そのものが一度失われ、人類は神だけを頼りに生きる時代を経験する。その先にこそ、本当の神の世が始まるのである。
逐次解説|文明は一度失われ、神だけを頼る世界となる
「元の神代に返す」は比喩ではない
元の神代に返すというのは、喩えでないぞ。
世の刷新の最初は破壊である。
何もない状態で幾年かは過ごすことになるのだろう。
少なくとも文化的な環境で生きてきた世代にとっては、何もない状態と思えるところまでいくのだろう。
神’は木の根でも食っていろと告げているが、生きていけるものはあるらしい。
つまり神示が語る「元の神代」とは、精神的な比喩ではなく、人類が文明を一度失い、神だけを頼って生きる現実の世界を指しているのである。
穴の中に住む時代とは何を意味するのか
穴の中に住まなならんこと出来るぞ。
穴とはシェルターだろうか。
終末には、貴重な品々を放り捨て、人々が穴蔵へ逃げ込むという描写が聖書にも記されている。
イザヤ書2章10〜12・19〜22
あなたは岩の間にはいり、ちりの中にかくれて、主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避けよ。
その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ、おごる人はかがめられ、主のみ高くあげられる。
これは、万軍の主の一日があって、すべて誇る者と高ぶる者、すべておのれを高くする者と得意な者とに臨むからである。
――中略――
主が立って地を脅かされるとき、人々は岩のほら穴にはいり、また地の穴にはいって、主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避ける。
その日、人々は拝むためにみずから造ったしろがねの偶像と、こがねの偶像とを、もぐらもちと、こうもりに投げ与え、
岩のほら穴や、がけの裂け目にはいり、主が立って地を脅かされるとき、主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避ける。
あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ。このような者はなんの価値があろうか。
旧約聖書 日本聖書協会 口語訳 イザヤ書2章10-12、19-22節
私は以前、「もぐらもち」と「こうもり」が何を意味するのか不思議に思っていた。
現在では、陸上を走るドローンや空中を飛ぶドローンを連想している。
それらを使って金目の物を奪い回る者も現れるだろう。
弱った政敵を、まだ少し力の残った者たちが襲い、奪い、叩く。
醜い仲間割れが世界中で起こる。
しかし、その背後には悪魔がおり、さらにその背後では神の天使たちがすべてを見ているだろう。
結局、淘汰される者は、どこで何をしていても逃れることはできない。
助かる可能性があるとすれば、悔い改めて神に叫び求めることによってしか生まれない。
それによって現世を生き延びられるという保証はない。
しかし来世では、少しはましな状況に置いていただけるかもしれない。
終末に問われるのは、どれほど多くの物を持っているかではない。最後まで神を求め、悔い改める心を失わないかどうかなのである。
生の物を食べて命をつなぐ世界
生の物食うて暮らさなならんし、臣民取り違いばかりしているぞ。
野草を生のまま、馬や牛のようによく噛み、反芻するように食べる状況になるのかもしれない。
火を起こすことも、食物を調理することもできず、その場で得られた物をそのまま口に入れて命をつなぐのである。
生の野草にはシュウ酸を含むものがあり、過剰に摂れば結石などの原因になる。
野草には毒を持つものもあり、知識のないまま口にすることは危険である。
それでも食べなければ生きられない時には、せめてよく噛み、自らの身の一部として体内へ取り入れるような思いでいただくことになるだろう。
また、食物に感謝し、神に祝福を願っていただくことで、人智を超えた力を受けることもあるのかもしれない。
現在の私たちは、食べ物が店に並び、火や電気を使って調理できることを当たり前だと思っている。
しかし、その当たり前の一つ一つが、神によって許されていた恵みであることを忘れている。
神示が「臣民取り違いばかりしているぞ」と告げるのは、人間が自分の力だけで文明を築き、生きていると思い込んでいるからではないだろうか。
最低限の生活さえ失われる
犬や猫などのペットは食われ奪われ激減するだろうが、それだけではない。
社会の秩序が崩壊すれば、人さらいが頻発し、特に子供たちが狙われることも考えられる。
さらわれた者が食用の肉として扱われ、畜肉と称されて闇で流通するような、おぞましい状況さえ起こり得る。
人肉を食べる行為は、人間としての尊厳を失わせるだけではない。
その報いは、クロイツフェルト・ヤコブ病のような形で現れ、脳に深刻な損傷をもたらす可能性がある。
普通にいわれる「最低限の生活」の、ほぼすべてがなくなるのである。
住居も、水道も、電気も、医療も、食料の流通もない。
生きていけない人々が路傍で死に、その亡骸が転がっていることさえ日常になる。
中には、飢えに耐えられず、死者の腐肉を取って食べる者も出るだろう。
人間としての尊厳までも打ち砕かれるほどの状況になる。
その中で命をつなぐことは、奇跡といってよいのだろう。
ただし、肉体の命を守るためなら何をしてもよいということではない。
生き延びることだけを目的として神の戒めを捨てれば、肉体は一時的に助かっても、霊の命を失うことになる。
極限状態だからこそ、何を口にし、何を拒み、誰を信じるのかが問われるのである。
すべてが天地へ引き上げられる時
何もかもいったんは天地へお引き上げぞ。
この時、人は初めて、自分がどれほど神の助けによって生かされていたのかを思い起こすことになる。
空気、水、食物、住む場所、健康、家族、社会の秩序。
それらは人間が当然の権利として所有していたものではない。
すべては天地から一時的に預けられていた恵みなのである。
何もかもが引き上げられた時、人は自らの無力さを思い知らされる。
その時に感謝と悔い改めの心でいる者は、たとえ死を迎えても幸いである。
その者にとって、地上での苦難はそこで終わるからである。
しかし、神を呪い、罵りながら死ぬ者は、死後も平安な場所にいることはできない。
人は死ぬ寸前の心模様にふさわしい場所へ行くことになる。
恐れ、憎しみ、怒り、執着に支配されたまま死を迎えれば、その心にふさわしい世界へと引き寄せられるのだろう。
だからこそ、前もって想定し、覚悟を定めておく必要がある。
苦しみの中にあっても、救いが近いという認識が心にあるだけで、現世における大きな救いとなる。
肉体の苦痛をすぐに取り除くことはできなくても、その苦難が永遠に続くものではないと知っていれば、心まで絶望に明け渡さずに済むのである。
我の欲に従えば大変が起こる
我の欲ばかり言っていると大変が出来るぞ。
そのような事態になっても、自分たちのためだけに物資を隠し、囲い込む者は現れるだろう。
その多くは、そもそもその状況を引き起こした側の者たちである。
自分たちだけは安全な場所へ逃れ、食料や水、燃料、医薬品を蓄え、他の人々が飢えて死んでいく様子を見下ろすつもりなのだろう。
飢えそのものは、次の時代へ移るために神が承認される。
しかし、その混乱を利用した不正や搾取、卑劣な抜け駆けまで神が許されるわけではない。
ズルを神’は許さず、決して見逃さない。
飢え狂った餓鬼どもによって、彼らの始末が行われることになるだろう。
それは正義を名乗る者たちの裁きではない。
欲に支配された者が、さらに激しい欲に支配された者によって滅ぼされるのである。
悪が悪を食い、互いに奪い合いながら崩れていく。
たとえ狂うほどに飢え、激しい痛みがあったとしても、そのような動きに臣民は動かされてはならない。
怒りや復讐心に任せて、物資を囲い込んだ者を襲えば、自らも同じ悪の流れに加わることになる。
悪魔同士が仲間割れを起こし、争い合う光景を、悪魔が嘲り笑う時となるだろう。
神の側に立ちたい者は、その争いに関わってはならないのである。
奪う側にも、奪われた者を襲う側にも立たず、最後まで神の御心を求めなければならない。
まとめ|すべてを失う時に身魂の正体が現れる
第36帖は、「元の神代に返す」という言葉が、単なる精神的な比喩ではないことを告げている。
文明は一度失われ、人々は穴の中に住み、生の物を食べて命をつながなければならないほどの状況へ追い込まれるかもしれない。
住居、食料、医療、財産、社会秩序など、人間が当然と思っていたものは、すべて天地へ引き上げられる。
その時に問われるのは、どれだけ多くの物を蓄えていたかではない。
恐怖と欲に従うのか、それとも神を信じ、悔い改めながら最後まで正しい側に立つのか。
何もかも失われた時、人の身魂の正体が現れる。
終末への備えとは、物資を蓄えることだけではない。苦難の中でも神を呪わず、欲と復讐に流されず、救いを信じ続ける心を今から育てることなのである。
日月神示を原文から読み解くために
日月神示は、一つの帖だけを切り離して読むよりも、前後の流れを追いながら読むことで、その意味がより深く見えてくる。
岡本天明によって記された原文には、現代語訳や要約だけでは捉えきれない独特の言葉遣いと響きが残されている。
本記事の解読を一つの参考としながら、ぜひ原文にも直接触れ、自らの身魂で言葉の意味を確かめていただきたい。


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