人は、自分が光へ向かっていると思いながら、実は闇へ降っていることがある。
その危うさは、悪を悪として選んでいる時よりも、むしろ「これは正しい」「これは救いだ」「ここに希望がある」と信じ切っている時に大きくなるのかもしれない。
第41帖では、人の目の届かないところで行われていることも神には知られていると告げられる。そして、闇の後には必ず夜明けが来るという、人が抱きやすい期待さえ否定する。
しかし最後には、「何もかも捨てる臣民、幸いぞ。捨てるとつかめるぞ」と語られる。
これは絶望だけを告げる帖ではない。
深い闇の中にあっても、なお残されている救いについて語られた帖ではないだろうか。
人の知らん、行かれん所で何しているのぞ。
神にはようわかっておるから、いよいよという時が来たら助けようもないから、気をつけてあるのにまだ目さめぬか。
闇の後が夜明けばかりと限らんぞ。
闇が続くかも知れんぞ。
何もかも捨てる臣民、幸いぞ。捨てるとつかめるぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第1巻 上つ巻 第41帖
ここで問われているのは、単に人目を避けて何をしているのかということだけではないだろう。
自分では光だと思っているものが、本当に神から来たものなのか。
そして、自分が握りしめているものを捨ててでも、真の光を求めることができるのか。
第41帖は、霊的な世界における「光と闇の見分け」と「執着を捨てること」を強く問いかけているように思える。
光と思っているものは、本当に光なのか
霊的な世界を考える時、最も警戒すべきなのは、闇が闇の姿をして現れるとは限らないということだろう。
明らかな悪であれば、人は警戒することができる。
しかし、それが美しい言葉や希望、救い、栄光といった姿をまとって現れたならどうだろう。
人はそれを光だと信じ、自ら近づいていくかもしれない。
そして一度深く同期してしまえば、そこから離れることは次第に難しくなっていく。
だからこそ第41帖は、「闇の後が夜明けばかりと限らんぞ」と警告しているのではないだろうか。
逐次解読|偽りの光から離れ、すべてを捨てて真の救いをつかむ
人の知らないところでも、神にはすべて見えている
人の知らん、行かれん所で何しているのぞ。
啓示とは神’からくる。それしか該当しない。
しかし、霊的な接触は別のところからもやってくる。
悪霊は存在している。
そして、その接触はシンクロした方からやってくるのだろう。
何度も繰り返すことで、より深く同期していく。
最初はわずかな接触であったとしても、それを受け入れ、繰り返し、そこに意味を見出し続けるならば、次第にその世界との結びつきは強くなっていく。
その結果、悪神を信じ切って地天国へ昇るつもりで、実際には地獄へ降っていくことさえあるのではないだろうか。
本人には「昇っている」という感覚がある。
だからこそ恐ろしいのである。
神’の警告が欲望によってかき消されていく
神にはようわかっておるから、いよいよという時が来たら助けようもないから、気をつけてあるのにまだ目さめぬか。
神’からはよく見えているし、行かないように呼びかけてもくれている。
しかし、その声は搔き立てられた欲望によって消されてしまう。
欲しい、知りたい、認められたい、力を得たい、特別な存在になりたい。
そうした欲望が強くなるほど、自分を止めようとする声よりも、自分の欲望を肯定してくれる声の方を信じたくなる。
そうなると蟻地獄のように、逃れることは難しくなっていく。
進めば進むほど戻るための力が必要となり、さらに深いところへ引き込まれていく。
天は悲しみ、地獄が歓喜する。
「まだ目さめぬか」という言葉には、そこへ行ってはならないという強い呼びかけが込められているように思える。
闇の後に、必ず夜明けが来るわけではない
闇の後が夜明けばかりと限らんぞ。
人は苦しい時、「この苦しみを越えれば光がある」と考える。
しかし淘汰の時には、悪魔がもたらす希望は打ち消されてしまう。
なぜなら、その希望そのものが偽りであった可能性があるからだ。
光を求めながらも、実は闇へ降っている。
それにもかかわらず、自分では光に近づいていると思い続ける。
そのため、より闇が深くなっていることに気づかない。
悪魔は偽りの栄光を創り出し、それを希望とすり替えてしまうだろう。
光に見えるものが、本当に光であるとは限らない。
「闇の後が夜明けばかりと限らん」という言葉は、希望を持つなという意味ではなく、自分が希望と呼んでいるものの正体を見極めよという警告なのではないだろうか。
闇と気づいた時には、深く降りすぎているかもしれない
闇が続くかも知れんぞ。
闇と気づいた時には、戻ることができない領域まで降っているかもしれない。
それでも人は、自分が信じたものの中に希望を見出そうとする。
「ここまで信じてきたのだから間違っているはずがない」
「もう少し進めば光が見えるはずだ」
そう考えて、さらに先へ進んでしまうこともあるだろう。
そしてようやく気づいて救いを求めても、すでに間に合わないところまで降っているかもしれない。
しかし、それでも救いの道はまだ閉ざされていない。
そのことが、続く最後の言葉によって示されているように思える。
すべてを捨てた時、本当に必要なものをつかめる
何もかも捨てる臣民、幸いぞ。捨てるとつかめるぞ。
「多く赦された者は、多く愛する」と言われるように、救い上げられる奇跡を経験する者もいるのだろう。
真の闇から栄光にまで引き上げられるために、持てるものをすべて捨てる者は幸いである。
しかし、そういった者は少ないだろう。
掴んでいるモノの引力は非常に大きい。
財産や地位だけではない。
自分が正しいという思い、自分が信じてきたもの、自分が積み重ねてきたもの、誇り、欲望、そして「これだけは失いたくない」という執着。
それらを握ったままでは、新しいものをつかむことはできない。
だからこそ、「捨てるとつかめるぞ」なのである。
闇から抜け出すために、これまで自分が信じてきたものさえ捨てなければならない時があるのかもしれない。
だが希望はまだある。
何もかも失ったように見えるところから、本当に必要なものをつかむ道が残されているのである。
まとめ|闇の中でも救いの道は残されている
第41帖は、霊的な闇の恐ろしさを語っている。
人は悪を悪として選ぶとは限らない。
光を求め、希望を求め、栄光を求めながら、知らないうちに闇へ降っていくこともある。
そして気づいた時には、容易には戻れないほど深いところまで来ているかもしれない。
それでも最後に示されるのは、「捨てるとつかめる」という言葉である。
自分が握りしめているものを捨てることができるなら、そこから救いへ向かう可能性は残されている。
闇が続いているように見える時こそ、自分が見ている光が本当に神’から来たものなのかを問い直す必要があるのではないだろうか。
書籍紹介|『日月神示』の原文を手元で読む
日月神示を深く読み解くためには、解説だけではなく、原文そのものを繰り返し読むことが大切である。
一つの帖だけでは意味がつかみにくい言葉でも、前後の帖や別の巻と読み合わせることで、繰り返されているテーマや言葉のつながりが見えてくる。
本連載を読みながら原文を確認したい方は、日月神示の原文をまとめた書籍を手元に置いておくと読み進めやすいだろう。


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