「世変りたら生命長くなるぞ。」
この一文は、ただの長寿の話ではないのかもしれない。
日月神示が語る「世変り」は、文明や制度だけでなく、人間そのものの在り方が変わる時代を指しているように見える。
聖書で語られる千年王国とも重なるような世界。
そこでは死の意味さえ、今とは違ったものになるのかもしれない。
一方で、ただ生き残れば良いわけではないとも、この帖は厳しく語る。
「改心」という言葉が何度も出てくるのは、そのためだろう。
世変りたら生命長くなるぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第11巻 松の巻 第22帖
今まで上にあがりて楽していた守護神は大峠越せんことになるぞ。
肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ。
悪も御苦労の御役。
この方について御座れ。
手引いて助けてやると申してあろが。
悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ。
時代の変化は、外側だけでは終わらない。
人の心そのものが問われる。そんな帖にも見える。
「生き延びる」ではなく「ふさわしくなる」時代
松の巻 第22帖では、「長寿」と「改心」が強く結びついている。
単純に災厄を生き残る話ではなく、その後の世界に適応できる霊性へ変わること。
そこに重点が置かれているように感じる。
だからこそ、善人にも改心が必要だと語られているのだろう。
逐次解説|光の世へ向かう者たち
福千年では人の寿命が変わるのか
世変りたら生命長くなるぞ。
再臨によって本格的に福千年に突入すると、聖書にもあるように自然が大きく変化していく。
人も病気やケガで死ぬことはなくなり、寿命が長くなる。
まるで木のようにともあるので、福千年終わるまで生きる人もいるのかも知れない。
わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。
彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである
旧約聖書 日本聖書協会 口語訳 イザヤ書65章20-22節
また、死がないので悲しみもない。
その日には、幼児は年を取るまで死ぬことはない。そして、人の生涯は木の寿命のようである。
また、人は死ぬときに眠ることなく、すなわち地の中に眠ることなく、一瞬のうちに変えられて引き上げられる。そして、彼の安息は栄光あるものとなる
末日聖徒イエス・キリスト教会 教義と聖約101章29-31節
さすがに首を切断すると死ぬと思うが、義人なら基本的にすぐ復活するので、死を意識することはないのではないか。
と思えば、そうでもない人がいるようで、
「残された者」が最後まで残れるとは限らない
今まで上にあがりて楽していた守護神は大峠越せんことになるぞ。
第2帖で「三分と思えども二分であるぞ」とあったのは覚えているだろうか?
淘汰の末、残るのが三分で、一分が過分に残されているということ。
ある意味、楽して残った人たちで「これで義人?」というひとたち。
守護神という呼び名が皮肉にとれる・・・
寿命が長くなる(大峠)という状態から外れてしまう(越せん)人たちになる可能性がある。

改心は「生きているうち」が重い
肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ。
心がしっかり改まることなく生き残った人々が死ぬと、霊界でも地獄に近いエリアに行くなら、もとの黙阿弥になるかも知れない。
肉体ないので食べなくても死なない。働かなくていい。
のんべんだらりと居てもいい。
そして救いを逃してしまう。
福千年まで残ったことを「運が良かった」と放置せず、しっかり悔い改めて義人、もしくは聖徒へ移行するようにお勧めする。
というより、ギリギリまで悪でいるよりも、今すぐにでも心を改める方がずっといい。
悪を担う者にも「役」がある
悪も御苦労の御役。
どっちつかずの者への皮肉に聞こえるよね。
実は悪をなすのも、本人には辛いものなのかも知れないと思うよ。
境遇というものも人にはあるからね。
そういう哀れみにも期限があるのだと思う。
たとえ神の恵みが満ちる福千年であってもね。
再臨=福千年というわけではなく、やはり過渡期はあって、その調整の期間はあるんだ。
相応しくない生き残りは、やんわりと淘汰されるのかも。
「この方」とは誰を指しているのか
この方について御座れ。
この方(イエス・キリスト)に帰依することで、罪が許され、時代にふさわしい存在になれる。
神も「残して良かった」と安堵することだろう。
手を引いて導く者たちは、もう現れている
手引いて助けてやると申してあろが。
この時代は、福音が方々で教えられ、生き方を改めることができる。
これは現世でも、霊界でもだ。
宣教師もいる。彼らが手引いて助ける神の代理人だ。
そういった調整を図るのも、福千年の業のひとつ。
この業は、もう目立たずはじまっている。
というのも、もう(西暦2000年頃)福千年の時期に入っているらしいから。
見かけたら話を聞くようにね。悪いことは言わないから。

「善悪ない世」が意味するもの
悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ。
悪は善に、善はより高い霊性の高みへ運ばれる。
また、改善しない悪は淘汰されている。
善しかなく、悪へと誘惑するものはなくなる。

悪に泣く人もいない。生きることが喜びとなる。
それが月の栄えとなる福千年の完成なのだ。
長寿そのものより「どう生きるか」が問われている
松の巻 第22帖は、未来の理想世界を語っているようでいて、実は「今どう生きるか」を強く問いかけている帖にも見える。
長く生きること自体が目的ではない。
光の世にふさわしい心へ変わること。
それこそが、この帖の中心なのかもしれない。
書籍紹介|原典に触れながら読む日月神示
日月神示は断片的な引用だけでは、全体像が見えにくい。
原文の流れを通して読むと、「同じ言葉が別の帖でどう響いているか」が見えてくる。
特に松の巻は、終末と再生、淘汰と救済が複雑に絡み合っている巻でもある。
今回の帖のように、「改心」と「光の世」がどう繋がっているのかを追うなら、原典を手元に置いて読む価値は大きいと思う。


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