太平洋戦争末期に下ろされたとされるこの神示は、大空襲、原爆投下、ソ連参戦、そして終戦という激動の時代のただ中にあった。
当時の人々は食料不足に苦しみ、明日の食べ物さえ不安な状況に置かれていた。
しかし人が飢えるのは肉体だけではない。
先の見えない時代には、心もまた飢える。
何を信じればよいのか。何のために生きるのか。どこへ向かえばよいのか。
この帖は、そうした肉体の飢えと霊的な飢えの両方に対して与えられた言葉のように見える。
そしてその内容は、戦後の日本だけでなく、これから訪れる時代にも重なって見えてくる。
豊受の大神様、お山の富士に祀り、箸供えてお下げした箸、皆に分けやれよ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第11巻 松の巻 第29帖
饌に難儀せんよう守り下さるぞ。
仕組少し早うなったから、かねて見してあったこと、八月の八日から始めくれよ。
火と水に気つけよ。
拝めよ。
キの御用大切ぞ。
ケの御用大切ぞ。
八の御用大切ぞ。は気引いた上にも気引くから、とことん試すから、そのつもりで、お蔭落とさんようにせよ。
二十五柱の役員ぞ。
慢心すれば替え身魂使うぞ。
この巻、松の巻。
この帖は「食」から始まり、「試し」で終わる。
食べること、生きること、感謝すること、そして神とのつながりを失わないこと。
松の巻を締めくくるにふさわしい、静かでありながら深い帖である。
命を養うものが世界を支える
この帖の中心にあるのは「命を養う」というテーマである。
戦争や災害のような大きな出来事ばかりに目を向けがちだが、人間が最後に必要とするのは食であり、感謝であり、分かち合いである。
豊受大神から始まり、食と霊的糧について語られるこの帖は、立て替え立て直しの時代に何を中心へ置くべきかを示しているように見える。
派手な力ではなく、命を生かす原理。
それこそが松の巻の最後に置かれた理由なのかもしれない。
逐次解説|肉体の糧と霊の糧が交わる場所
豊受大神を富士に祀るとは何を中心に据えることなのか
豊受の大神様、お山の富士に祀り、
ここでまず出てくるのが豊受大神(とようけのおおかみ)である。
- 命を養う力
- 循環
- 神饌
- 生存基盤
を司る神格として知られている。
そしてそれを富士に祀れという。
日月神示における富士山は単なる山ではない。
- 国土軸
- 天地の柱
- 霊的中心
として扱われることが多い。
つまりこれは、「文明の中心に命を養う原理を据えよ」という意味にも読める。
力や支配ではなく、命を生かすものを中心へ戻せという宣言のようにも見える。
また、祀るとは神を中心に置くことでもある。
苦しい時代であっても最上のものをまず神に捧げる。その姿勢がここに示されているように感じる。
箸は神と人をつなぐ橋なのか
箸供えてお下げした箸、皆に分けやれよ。
ここは非常に象徴的である。
箸は単なる食器ではない。
- 神前箸
- 祝い箸
- 両口箸
など祭祀具としての意味があった。
さらに、
- 箸
- 橋
- 端
は同音である。
つまり箸とは神と人をつなぐ橋でもある。
梯子(はしご)もまた天と地を結ぶ象徴である。
時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
旧約聖書 日本聖書協会 口語訳 創世記28章12節
神に捧げたものを下げ、それを皆で分かち合う。
これは単なる食事ではなく、命を共に受ける行為である。
クリスチャンの立場から見ると、この構造は聖餐にも重なる。
神に捧げられたものを受け取り、共同体で分かち合う。
それによって神との聖約を思い起こすのである。
肉体の食と霊の食はどちらも必要である
饌に難儀せんよう守り下さるぞ。
饌(け)とは神への食事、供物である。
ここには二つの意味が重なっているように見える。
- 肉体を養う食
- 魂を養う食
現実には食料が与えられ、肉体が養われる。
霊的には神の言葉によって魂が養われる。
そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。
旧約聖書 日本聖書協会 口語訳 出エジプト記16章4節
荒野で与えられたマナを思い起こさせる言葉である。
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 ヨハネの福音書6章35節
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 マタイの福音書4章4節
肉体の食も必要である。しかしそれだけでは人は満たされない。
この帖はその両方を語っているように見える。
八月八日に始まる大きな転換
仕組少し早うなったから、かねて見してあったこと、八月の八日から始めくれよ。
ここで急に預言的な空気が強くなる。
「仕組」とは神の計画、時代転換の工程、見えない準備を意味するように見える。
また八は、八方・八重・八開き・弥栄など広がりや展開を象徴する数である。
そして歴史を見ると、
- 1945年8月6日 広島原爆投下
- 1945年8月8日 ソ連対日参戦
- 1945年8月9日 長崎原爆投下
- 1945年8月15日 終戦
という出来事が続く。
これらと関係しているのか、あるいはさらに大きな意味を持つのか。
これらに対応して神示を世に出していくという意味にもとれる。
後の時代においても、この言葉が成就する機会が訪れるだろう。
断定はできないが、時代の大転換を指しているように見える。
火と水に気をつけよという警告
火と水に気つけよ。
これは日月神示を象徴する言葉の一つである。
- 災害
- 浄化
- 陰陽
- 文明エネルギー
火と水はこうした意味を含んでいる。
戦争末期を振り返ると、熱線、爆炎、黒い雨など原爆を連想する人も多い。
確かに一つの成就として見ることはできる。
しかし、この帖がなお読まれ続けていることを考えると、この警告はまだ終わっていないようにも思える。
拝めよという短く重い言葉
拝めよ。
形式的な礼拝というより、「上なるものを認識せよ」という呼びかけのように感じる。
自分中心になりやすい時代だからこそ必要な言葉である。
キとケと八に託された役目
キの御用大切ぞ。
ケの御用大切ぞ。
八の御用大切ぞ。
キには、
- 気
- 木
- 生
- 機
など多くの意味が重なる。
ケは古来の日常生活を意味する「ハレとケ」のケであり、暮らしそのものを指す。
また八は広がりと完成を象徴する数である。
特別な霊性だけでなく、日々の暮らしを整え、その働きを広げていくことが求められているように見える。
試しの時代に何を失うのか
は気引いた上にも気引くから、とことん試すから、そのつもりで、お蔭落とさんようにせよ。
試しとは本心を明らかにすることである。
- 慢心
- 欲
- 恐れ
- 怒り
そうしたものによって人の本質が現れる。
また「お蔭」とは守護や導き、神とのつながりに近い。
その線を自ら切らないようにという警告でもある。
二十五柱の役員と未来の器
二十五柱の役員ぞ。
柱は神々や役目を数える言葉である。
二十五の意味は断定できないが、ゲマトリア的には二+五で七となり、完全性を連想させる。
岡本天明は天津教という教会的な共同体を持っていた。
それは教祖崇拝のためというより、日月神示を伝える器としての側面が強かったように見える。
当時の人々への指示であると同時に、未来のどこかで現れる組織への言葉でもあるのかもしれない。
役目は人に固定されていない
慢心すれば替え身魂使うぞ。
これは日月神示に繰り返される重要な警告である。
役目は人に固定されていない。
慢心すれば別の人、別の器、別の身魂へと役目は移る。
厳しいが重要な教えである。
松の巻が最後に残したもの
この巻、松の巻。
松は常緑、永続、不変、中心軸の象徴である。
そして松の巻を締めくくるこの帖は、世界を立て直す中心には命を養う原理があると語っているように見える。
- 食
- 分かち合い
- 日常
- 感謝
- 命
それらは地味に見える。しかし次の時代を支える土台になるのは、実はそうしたものである。
そしてこの第29帖をもって、松の巻は了となる。
松の巻が最後に語ったもの
この帖は食の話から始まる。
しかし最後まで読むと、単なる食料の話ではないことが分かる。
人は肉体の飢えを満たさなければ生きられない。
しかし霊的な飢えもまた、人を弱らせる。
だから豊受大神が最初に置かれているのだろう。
食物は身体を養う。
神の言葉は魂を養う。
その両方を感謝して受け取り、分かち合うところに、この帖の中心があるように思える。
そして松の巻は、この第29帖をもって幕を閉じる。
立て替え立て直しの大きな話の最後に置かれたのが「命を養うこと」だったという事実は、とても象徴的ではないだろうか。
原文から読む日月神示
日月神示を解読する上で、まず触れておきたいのは原文そのものである。
解説書は解釈者の視点が入るが、原文には独特の響きと空気がある。
松の巻をはじめ、全巻を通して読むことで見えてくる流れも少なくない。


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