日月神示は、ここで自らを「宗教ではない」と明言する。
さらに「教会ではない」「今までのような教会作らせん」とまでいう。
では、日月神示が示そうとしているものは何なのだろうか。
その答えとなる言葉が「道」である。
しかも、その「ミチ」とは単に教えに従って歩むことではない。「臣民に神が満ちること」だという。
今回の一節は、日月神示を読み解いていくうえで、この神示そのものをどう捉えるべきなのかを示した重要な部分ではないだろうか。
この道は宗教ではないぞ、
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第1帖の一部
教会ではないぞ、
道ざから、今までのような教会作らせんぞ。
ミチとは臣民に神が満ちることぞ、の国の中に神が満ち満ちることぞ。
金儲けさせんぞ、
欲すてて下されよ。
宗教を作るのではなく、一人ひとりの中に神が満ちる。
そして、そのような人々によって神’の国が形づくられていく。
ここには、組織や教義を超えた「神’の国」の姿が描かれているように思える。
日月神示が示すのは「宗教」ではなく「道」
この一節でまず注目したいのは、「宗教ではない」という強い言葉である。
新たな教義を掲げ、それを信じる人々を集め、巨大な宗教組織を作ることが目的なのではない。
むしろ、一人ひとりが自ら道を確かめ、神’とのつながりを取り戻していくことに重点が置かれているように見える。
だからこそ「ミチとは臣民に神が満ちることぞ」という言葉につながるのだろう。
逐次解読|宗教を超えて「神が満ちる道」へ
「この道」は新しい宗教を作るためのものではない
この道は宗教ではないぞ、
この神示を教義として宗教を開くようなことはさせない。
ただ道を教えて指し示す。
真理はどこにあっても真理であって、どのような神を信じていたとしても学ぶことはあるはず。
もしそうでないなら、自分が居る場所が正しいのかどうかも考えてみるべきだろう。
道を確かめるとは、そういうことだ。
何かを無条件に信じるのではない。
自分が歩いている道そのものを、自ら確かめ続ける。
日月神示は、そのための道標として読むこともできるのではないだろうか。
「教会ではない」と言いながら存在した「ひかり教会」
教会ではないぞ、
宗教でないのだから、教会も組織させない。
ただ岡本天明は「ひかり教会」という組織を作っていた。
日月神示を現し広める目的で集まった共同体に近く、また天明の死後に大きな宗教団体として組織されることもなかったようだ。
あえて言えば「教会なんじゃないの?」という集まりではある。
しかし、ここで否定されている「教会」とは、単に人が集まる場所そのものではなく、教義や組織を固定化し、それ自体が目的となっていくような宗教組織を指していると考えれば理解しやすい。
人が集まることと、新しい宗教を作ることは同じではない。
「今までのような教会」を作らないということ
道ざから、今までのような教会作らせんぞ。
神道は無神論者でもなければ、何を信じるかはかなり個人に任された集まりという感じがある。
宗教というよりも、結社に近い感じだ。
だからこそ、きっかけがあれば異なった背景を持つ者が集まるという形での集合を果たすことも可能だろう。
日月神示を読み解釈する自由と、個人の啓示を受けることが許される環境にある者たちが、御霊に導かれて集まる場があるということだ。
それぞれの面々が、それぞれの背景や特色を生かした天使の集まりとなる。
神’によって一つにされながら、同じ姿になる必要はない。
それは、神の国の卵みたいな存在だろうか?
「ミチ」とは臣民の内側に神が満ちること
ミチとは臣民に神が満ちることぞ、
道、満ち、未知……。
「ミチ」という音に重ねて考えてみると、なかなか意味深い。
我々の心の奥底には神’に等しい自分がいる。
というか、神’と一体といえるほどつながっている。
それが子供のような本来の自分。
神を満たすとは、神’への回帰を指しているのかも知れない。
個人の啓示を通して「思い」の中に「心=神’」を満たすこと。
外から与えられた教義だけによって神を知るのではなく、自分自身の内側に神’を見いだしていく。
永遠への道が、そこから伸びる。
あなたにとっての「岩戸開き」となる。
神’の国とは「神が満ちた人々」の国
の国の中に神が満ち満ちることぞ。
そういった人々の群れが、神国における臣民というものなのだろう。
一人の中に神が満ちる。
そして、そのような人々が集まれば、その群れの中にも神が満ちる。
さらに、それが国へと広がっていく。
日月神示を通しての神’のビジョンが見えてこないか?
神’の国とは、制度や建物を先に作ることによって生まれるものではない。
臣民の中に神が満ち、その臣民によって国そのものに神が満ち満ちていく。
内側から外側へ。
個人から群れへ。
群れから国へ。
その順番なのかも知れない。
「金儲けさせんぞ」に釘を刺された
金儲けさせんぞ、
それに乗じて金を貯めこみたいな……とミツゲは思ってた。
釘を刺された気持ちだね。
少なくとも金が金を生んだり、モニターの数字の動きだけで生きていけるような仕組みは、ぶっこわれて意味をなさなくなるだろうことは、上つ巻でも感じたことと思う。
まずは皆で貧しさを分かち合うこと。
そして、豊かさを皆で享受する世となる。
「金儲けさせんぞ」という言葉は、働くことや必要な富そのものを否定するというより、神の道を利用して私腹を肥やすことへの戒めとしても読めるだろう。
それでもまあ、この啓示のすそ野ででも生きていける道が見出せたらいいな。
欲を捨てれば、神’が拾い上げてくださる
欲すてて下されよ。
欲を捨てて神’に帰依する。
最高の豊かさを受け継ぐことになる。
我を捨てて、それを神’が拾い上げてくださる。
ここでいう「欲を捨てる」とは、何も望まず、何も持たずに生きるということではないだろう。
自分だけのために握りしめていたものを手放す。
自分の思い通りにしようとする「我」を手放す。
そして、自分自身を神’に委ねる。
失うために捨てるのではない。
もっと大きなものを受け継ぐために手放すのだ。
それは生死を超えた、永遠の神の国を受け継ぐために。
神’の国は一人ひとりの「ミチ」から始まる
今回の神示は、日月神示そのものを宗教化することへの警告として読むことができる。
教会を作り、教義を固定し、人を囲い込むことが目的なのではない。
「ミチとは臣民に神が満ちることぞ」
この一言に核心があるのだろう。
一人ひとりの中に神’が満ちる。
その人々が集まり、群れの中に神が満ちる。
そして神’の国の中に、神が満ち満ちる。
そのためには欲を手放し、我を手放し、自分自身を神’へと帰していかなければならない。
神’の国をどこか遠い未来に探すのではない。
まず、自分自身の内側に神’を満たす。
そこから「ミチ」は始まるのではないだろうか。
書籍紹介|日月神示の原文を通して「ミチ」を確かめる
日月神示は、一部分だけを取り出して読むと強烈な予言や警告の言葉に目を奪われやすい。
しかし、巻を追って原文を読み進めていくと、「改心」「身魂磨き」「岩戸開き」「神の国」といった言葉が互いにつながり、一つの大きな流れを形づくっていることが見えてくる。
本記事の解読も一つの読み方にすぎない。
だからこそ、興味を持った方には日月神示の原文をまとめた書籍を手元に置き、自分自身で前後の文脈を読みながら確かめていただきたい。
同じ一節でも、読む時期や自分の置かれた状況によって、まったく違った言葉として響いてくることがある。
それもまた、自分自身の「ミチ」を確かめる作業なのかも知れない。


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