日月神示・下つ巻第10帖では、「八月の十日」「アイウは縦」「アヤワは横」「十は火と水」という、象徴的な言葉が続く。
とりわけ注目したいのは、縦と横を組み合わせることで「十」となるという記述である。
五十音の配列として読めば、「アイウ」は縦、「アヤワ」は横となり、その二つを重ねれば十字の形が現れる。そして続けて「十は火と水ぞ」と語られる。
これまで読み解いてきた「富士=不死」という重なりや、八、十、火、水という象徴をキリスト教的な視点から見ていくと、ここにはイエス・キリストと救いの道を思わせる構造が浮かんでくる。
八月の十日には江戸に祀りてくれよ。
アイウは縦ぞ、アヤワは横ぞ、縦横組みて十となるぞ、
十は火と水ぞ、
縦横結びて力出るぞ。
何も心配ないから、ドシドシと
の申す通りに御用進めてくれよ。
臣民は静かに、
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第10帖は烈しき時の世近づいたぞ。
一見すると、当時の具体的な祭祀や御用についての指示である。
しかし、その言葉を一つずつ拾っていくと、「十」を中心として複数の象徴が結びついていることに気づく。
本稿では、これをクリスチャンの立場から読み解いていく。
「十」に集約されていく言葉――第10帖をどう読むか
第10帖では、「八月の十日」という日付から始まり、「縦横組みて十」「十は火と水」と、「十」が繰り返し強調されている。
さらに縦と横という二方向が一つに結ばれ、そこから「力」が出るという。
これを単なる文字遊びとして読むのではなく、「十」という象徴を中心にして考えると、十字、火と水、そして人と地球の救いという一つの流れが見えてくる。
ここから原文を順に見ていこう。
逐次解説|「十は火と水ぞ」が示す救いの構造
八月十日に江戸へ祀る――「八」と「十」に何が隠されているのか
八月の十日には江戸に祀りてくれよ。
まずは、当時の集会所での祭祀についての具体的な指示と読むことができる。
しかし、ここでは「八月の十日」という表現そのものにも注目してみたい。
「八」を「ヤ」と読めば、「Y」に当たるヘブライ文字「י」(ヨッド/Yod, Yodh)を連想することができる。ヨッドは神名YHWH(ヤハウェ)の最初の文字でもある。
そして「十」からは十字架を連想できる。
さらに漢字の「八」を形として見ると、左右に裾を広げた富士山の姿にも似ていないだろうか。
富士については、これまでの解読でも「富士」と「不死」という読みの重なりを見てきた。
これらを一つの象徴として重ねていけば、ヤハウェ(エホバ)とイエス・キリストを結びつけて読むことができる。
もちろん、これは「八月十日」という日付の歴史的意味そのものを否定するものではない。そこに重ねて読むことのできる象徴的解読である。
そう考えると、「江戸に何を祀るのか」という問いにも、もう一つの意味が浮かび上がってくる。
ここには、祀られる存在が誰なのかを暗示する仕掛けがあるのではないだろうか。
「アイウは縦、アヤワは横」――五十音から現れる十字
アイウは縦ぞ、アヤワは横ぞ、縦横組みて十となるぞ、
五十音図で見れば、「アイウ」は縦の線となり、「アヤワ」は横の線となる。
縦と横を組み合わせれば、「十」の形になる。
つまり、ここでも十字の形が出てくる。
前の「八月の十日」と合わせて読むならば、単に数字としての十が示されているのではなく、縦と横によってわざわざ「十」が形作られていることに意味を見いだすことができる。
クリスチャンの視点から見れば、そこから十字架を連想するのは自然である。
そして前節の「八=ヤ=ヨッド」という読みと重ねることで、ヤハウェ(エホバ)とイエス・キリストという関係が浮かび上がってくる。
「十」という文字が、十字架を通してイエス・キリストを指し示しているのではないか。
そう読むと、次の「十は火と水ぞ」という言葉がさらに重要になってくる。
「十は火と水ぞ」――水のバプテスマと火による浄め
十は火と水ぞ、
ここからは、クリスチャン側からの解読を進めていく。
「火と水」を、地球と人の救いのための浄めの過程と解いてみたい。
十を10として「1」と「0」に分けて考える。
「1」は「はじめ」。
そこにノアの洪水を重ねれば、水による地球の浄めであり、いわば地球のバプテスマと見ることができる。
一方、「0」は「終わり」。
そこにはキリストの再臨に伴う火による浄めを重ねることができる。こちらは地球に対する「火のバプテスマ」ともいえる。
水による浄めから始まり、火による浄めへ。
そう考えるならば、地球もまた人と同じように、この過程を経て救いへの道を歩んでいるという象徴になる。
「十は火と水ぞ」という短い一文には、水と火という二つの浄めを結びつける意味が込められているのではないだろうか。
「縦横結びて力出る」――儀式が力を持つのはなぜか
縦横結びて力出るぞ。
人もまた、全身を水に沈めるバプテスマを受け、その後、頭に手を置いて聖霊の賜物を授ける宣言を受ける。
水のバプテスマと、聖霊による火のバプテスマである。
これらを経て、人は天国への門をくぐることになる。
儀式そのものは形式である。
しかし、単なる形式ではない。
そこに神’との約束があるからこそ、儀式には実効力が生まれる。
「縦横結びて力出るぞ」という言葉も、異なるものが正しく結ばれることによって、初めて本来の力が現れるという意味に読むことができる。
水だけでもなく、火だけでもない。
形だけでもなく、霊だけでもない。
それらが結ばれるところに「力」が出るのである。
神’の申す通りに御用を進める――個人的な啓示への道
何も心配ないから、ドシドシと
の申す通りに御用進めてくれよ。
これらの儀式を完了した臣民は、自覚さえあれば、聖霊の導きを受ける道筋がすでにできている。
そして、啓示とはどういうものなのかを理解できるようになるはずである。
もしこれらを、単に教会に入るための儀式だと思っているのであれば、そこに備えられている重要な恩恵を十分に受け取っていない可能性がある。
もちろん、本人が強く意識していなかったとしても、その祝福を受けていたからこそバプテスマの儀式に臨むことができたとも考えられる。
しかし、その先がある。
意識して神’との個人的な関係を築いていく必要があるのだ。
神’の声を聞き、その導きに従って、自分自身の御用を進めていく。
そうでなければ、せっかく与えられた霊的な火も、やがて消えていってしまうだろう。
なぜなら、世の邪な火の方が、放っておけばずっと強くなるからである。
「臣民は静かに、神’は烈しく」――二つの対照が示す時代
臣民は静かに、
は烈しき時の世近づいたぞ。
ここには鮮やかな対照がある。
「臣民は静かに」。
そして、「神’は烈しく」。
臣民は静かに聖霊の声を聞き、心を安らかにする。
世が騒がしくなるほど、その静けさは重要になる。
神’との関係が深まれば、外の世界が混乱していても、臣民はますます心を安らかにして神の御業に働くことができる。
しかし、その一方で神’は世に向けて烈しく働き始める。
それは、この世に対する淘汰の業とも読める。
臣民まで一緒になって烈しくなるのではない。
世が烈しく動くときだからこそ、臣民は静かに神’の声を聞く。
「臣民は静かに、神’は烈しき」という対照そのものが、これからの時代に求められる姿勢を示しているのではないだろうか。
水と火を結ぶ「十」――静けさの中で神’の声を聞く
下つ巻第10帖では、「八月十日」から始まり、「アイウ」と「アヤワ」、「縦」と「横」、「十」、「火」と「水」という言葉が次々と結びついていく。
これをクリスチャンの視点から読むならば、その中心に十字架を置くことができる。
水による浄めと、火による浄め。
地球にも、人にも、その二つの過程がある。
そして重要なのは、儀式を終えること自体ではない。
その先で神’との個人的な関係を築き、聖霊の静かな声を聞きながら、自分に与えられた御用を進めていくことである。
世が烈しくなるほど、臣民は静かになる。
この一見矛盾した言葉にこそ、第10帖が伝えようとしている生き方が凝縮されているのかもしれない。
書籍紹介|日月神示の原文を手元で読み解く
日月神示を逐次的に読み解いていくなら、解説だけではなく、原文そのものを繰り返し読むことが重要である。
一つの言葉が別の帖とつながり、以前は意味が分からなかった表現が、後の記述によって突然つながることもある。
本ブログの解読も一つの読み方であり、原文と照らし合わせながら、自分自身で考えていくための材料として読んでいただきたい。
日月神示の原文をまとめた書籍を手元に置いておけば、気になった言葉を前後の帖や別の巻と比較しながら読むことができる。


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