人は、自分だけが理性を持ち、動物や草木は本能や自然の法則に従って生きていると考えがちである。
しかし、日月神示はまったく逆の方向から人間を見ている。
けものさえ神の御旨に生き、草木さえ神の心に従っている。それなのに人間は神を罵ることさえするというのである。
ここで思い浮かぶのが、アイヌの「カムイ」という世界観である。
動物だけではない。草木にも、山にも、川にも、火にも、道具にもカムイがいる。
万物がそれぞれに与えられた役割を果たしていると考えるならば、「けものさえ、神の御旨に息せる」という言葉の意味も違って見えてくる。
けものさえ、
の御旨に息せるを、
を罵る民のさわなる。
草木さえ神の心に従っているではないか、
の旨にそれぞれに生きているでないか、あの姿に早う返りてくれよ、
青人草と申すのは、草木の心の民のことぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第11帖の一部
この一節では、人間より下等な存在として見られがちな「けもの」や「草木」が、むしろ神の御旨に忠実な存在として描かれている。
そして最後には、人間を意味する「青人草」という言葉について、「草木の心の民」であると説明している。
では、「草木の心」とは何なのだろうか。
けものも草木も、それぞれの役割を生きている
この一節を読むと、自然界に存在するものは、それぞれが勝手に存在しているのではなく、神から与えられた役割を果たしているという世界観が見えてくる。
けものはけものとして生きる。
草木は草木として生きる。
人から見れば残酷に見える自然界の出来事であっても、その存在は与えられた役割から外れてはいないのかもしれない。
ところが人には自由意思がある。
神に従うこともできれば、神を否定することもできる。
だからこそ日月神示は、けものや草木と人間を比較して、人間の生き方を問いかけているのではないだろうか。
逐次解説|けものと草木から「神の御旨に生きる」ことを考える
けものさえ神の御旨に生きる――カムイの世界観から考える
けものさえ、
の御旨に息せるを、
を罵る民のさわなる。
カムイはアイヌでの神を表す言葉であり、日本語の「神(かみ)」との関係を考えたくなるほど、音もよく似ている。
カムイの特色は、熊ならば神のような霊的存在が熊の肉体を着ぐるみのように被って、この世に現れ、役割を果たしているという考えにある。
熊が害をなすことも、カムイとして与えられた役割を果たしていると考える。
そして熊が殺され、その肉や皮を人が使うために提供することも、カムイが人の役に立つことであり、それ自体が喜びであると考えられていたようだ。
カムイが宿るのは生物だけではない。
無生物にもカムイが宿っている。というより、私たちが考える意味での「無生物」という認識そのものが、この世界観には当てはまらないのかもしれない。
すべてのものにカムイとして霊的存在が宿り、大元の神’に託された役割を果たしている。
そう考えるなら、地球そのものにも、その役割を与えられたカムイが宿っているのかもしれない。
では、誰がカムイをやるのだろうか。
ここからは私なりの考察になる。
- 地上に生まれる前の霊が、地上生活の予行演習としてカムイとなる。
- 地上での働きを終えて、神に近い存在となった霊がカムイ役をする。
- あるいは、天の父の仲間――いわば「天のおじさんやおばさん」のような存在がカムイ役をする。
そんな可能性を考えることもできる。
もしそうであるなら、万物はそれぞれ神の意志に従って存在していることになる。
しかし、人には自由意思が与えられている。
神’を信じることも、信じないことも自由に選べる。
良心に従うこともできれば、従わない生き方もできる。
人だけが、ある意味では神のように自由に振る舞うことができるのである。
神の子として神の特質を持ち、ある程度の権限まで与えられて、その自由意思をどう使うのかを試されているのではないだろうか。
人は神を罵ることさえできる。
しかし自由には責任が伴う。
そして、自分が選んだ結果は自分で引き受けることになる。
草木にもカムイがいる――使われることを喜びとする存在
草木さえ神の心に従っているではないか、
すべてにカムイが宿っているのであれば、当然のこととして草木にもカムイがいることになる。
草木は、人に食べられる。
木は切られ、家や道具になり、燃料にもなる。
それでも、人に使われ役立つことにカムイは喜びを感じているのかもしれない。
ただし、それは人間が好き勝手に自然を消費してよいという意味ではないだろう。
必要なものを必要なだけいただくことと、欲望のままに乱獲することは違う。
乱獲され、無駄に捨てられていく姿には、カムイも心を痛めているのではないだろうか。
人間が自然から何かを受け取るのであれば、そこには感謝が必要なのだと思う。
「あの姿に早う返りてくれよ」――人間だけが神の旨から外れられる
の旨にそれぞれに生きているでないか、あの姿に早う返りてくれよ、
動物を見ていると、まるで理性があるのではないかと思えるような行動をすることがある。
仲間を助けたり、人間を助けたり、危険を察知したり、ときには人間以上に思いやりがあるのではないかと思える行動まで見せる。
もしカムイが人のような霊的存在であるならば、そのような行動を選ぶ理性があっても不思議ではない。
逆に、動物があえて畜生的な振る舞いをするのも、神から与えられた役割を果たしているから、と考えることもできる。
人間から見れば残酷な弱肉強食であっても、自然界全体から見れば必要な働きなのかもしれない。
そう考えていくと、人が見ていないところでは、動物たちは実はもっと人間臭い振る舞いをしているのかもしれない(笑)。
日月神示が「あの姿に早う返りてくれよ」と言うのは、動物や草木のようになれという単純な意味ではないだろう。
それぞれに与えられた役割を受け入れ、神の旨の中で生きる姿へ戻れ、ということではないだろうか。
青人草とは「草木の心の民」――仕える姿に人間の原点を見る
青人草と申すのは、草木の心の民のことぞ。
草木は刈られても、食べられても、無のごとくに振る舞う。
何も言わない。
逃げることもない。
しかし、もし草木にもカムイが宿っているのであれば、草木のカムイは痛みも感じているのではないだろうか。
それでも、人に役立つ喜びの中に、その痛みさえ飲み込まれてしまうのかもしれない。
そこには「自分が、自分が」という姿がない。
ただ、自分に与えられた役割を果たしている。
そのような仕える姿勢を、私たちはカムイの模範から学べるのではないだろうか。
日月神示が「青人草」を「草木の心の民」と説明していることは、とても興味深い。
人間は自然を支配する存在なのではなく、本来は草木と同じように神の御旨の中で生きる存在だったのではないか。
日本人は昔から、山や川、巨石や巨木、動物、さらには道具にまで霊的なものを感じ取ってきた。
自然の中に神を見る感性である。
その感性を失い、草木をただの物質としか感じられなくなった日本人は、「臣民」として本当に大丈夫なのだろうか。
青人草に返るとは、神の中で自分の役割を生きることではないか
第11帖のこの部分では、人間に対して「けもの」や「草木」の姿を見よと語られている。
けものは、けものとして生きている。
草木は、草木として生きている。
それぞれが神の御旨の中で、自分に与えられた役割を果たしている。
ところが人間には自由意思がある。
だから神から離れることさえできる。
神を罵ることさえできる。
それは人に与えられた大きな自由であると同時に、大きな責任でもあるのだろう。
「青人草」とは、ただ人間を植物にたとえた言葉ではないのかもしれない。
草木のように、自分に与えられた場所で、自分に与えられた役割を果たす。
そして自分を役立てることを喜びとする。
それが「草木の心」であり、人が本来返るべき姿なのではないだろうか。
けものや草木よりも自由な人間だからこそ、その自由意思によって自ら神の御旨を選ぶ。
そこに、人が神の子として地上に生きる意味があるのかもしれない。
書籍紹介|日月神示の原文を手元で読みながら考える
日月神示は、一つひとつの言葉を切り離して読むよりも、前後の帖を含めて原文を読み進めることで、繰り返し現れる言葉や思想のつながりが見えてくる。
今回取り上げた「けもの」「草木」「青人草」という言葉についても、日月神示全体に流れる「神の御旨に生きる」という視点から読み直すことで、また違った意味が見えてくるのではないだろうか。
解説だけでなく、自分自身で原文を読み、そこで何を感じるのかを確かめてみることをおすすめしたい。


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