【日月神示】下つ巻 第11帖②|道は自分で開くのぞ――人に頼らず、神’に頼るということ

当ページのリンクには広告が含まれています。
険しい山道を自ら切り開き、雲間から差し込む神’の光へ向かって進む人

日月神示は、神’の御用をする者に対して、「待っていれば道が開かれる」とは説かない。

むしろ、かなり厳しい言葉で語っている。

自分で歩め。
自分でつとめよ。
自分で御用せよ。
そして、自分で道を開け――。

では、神’の助けとは何なのだろうか。

自分で歩かなければならないのなら、すべてを自分の力だけで成し遂げなければならないのだろうか。

今回の一節を読んでいると、むしろ逆のことが見えてくる。

道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさしてくれるのでないぞ、自分で御用するのぞ、

道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。

[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第11帖の一部

ここには、「人に頼らないこと」と「神’に頼ること」の違いが隠されているように思える。

スポンサーリンク
目次

神’の御用でも、自分が歩かなければ始まらない

この一節で繰り返されているのは、「自分で」という言葉である。

道は自分で歩む。
御用は自分でつとめる。
そして、道は自分で開く。

神’の御用だからといって、誰かが自分を運んでくれるわけではない。

神’から使命を与えられたとしても、実際に一歩を踏み出すのは自分である。

ここには、神’にすべてを任せて待つという姿勢とは異なる、かなり能動的な信仰のあり方が示されているように思う。

逐次解説|「自分で歩く」と「神’に頼る」は矛盾しない

歩く意思は、自分のものでなければならない

道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさしてくれるのでないぞ、自分で御用するのぞ、

御業の歩みで神’の助けを受けるにせよ、歩く意思はあなた自身のものでなければならない。

あなたが動き、それを神’が助けることで、あなたを通して神’の力がこの世に現れる。

ここは大切なところだと思う。

神’が助けてくださるから、自分は何もしなくていいのではない。

反対に、自分の力だけですべてをやらなければならない、ということでもない。

まず、自分が歩く。

その歩みの中に、神’の助けが加わる。

そう考えると、「自分で御用する」という言葉と「神’の御業」は矛盾しない。

人間が自らの意思で動くことによって、神’の力がこの世に現れる。

つまり、自分自身が神’の御業の通り道になるということなのかもしれない。

人には頼るな。では、神’に頼るのは?

道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。

ミツゲはものぐさなので、「誰かやってくれんかなー」と周りを見てしまう。

でも、これって新たな成長の機会を逃しているかもしれない。

道を開くのは苦しそうに見えるし、実際に苦しい。

誰かが先に道を作ってくれて、その後を歩くだけなら楽である。

しかし、それでは「自分で道を開く」ことにはならない。

神’の御業であれば、末日になればなるほど、死んでしまうほど試されることもありそうだ。

実際のところ、はじめと最後は一人なんだよなーと思う。

本当に挫けるほどの試しを受けることはなくても、それでも自分自身が「もう無理だ」と感じ、挫けそうになるときはありそうで怖い。

ただ、ここで一つ気づく。

ん?
人に頼ってはならんけど、神’に頼るのはOKとも読めるね。

これは最強の約束なんじゃないか?

「人頼りてはならん」とは書かれている。

しかし、「神’に頼ってはならん」とは書かれていない。

自分で道を歩く。
自分で御用する。
自分で道を開く。

それでも、自分一人の力だけで戦えとは言っていない。

自分の意思で一歩を踏み出し、その先を神’に頼る。

そう読むことができるなら、この一節は厳しい命令であると同時に、とても力強い約束にも見えてくる。

やりたいことがあって、それが神’の御業とリンクしているなら、もっと意識してもいいマインドかもしれない。

「誰かがやってくれないかな」と待つのではなく、自分から一歩を踏み出す。

そして、自分ではどうにもならないところを神’に頼る。

そのとき初めて、自分では開けなかった道が開いていくのかもしれない。

道を開くのは自分、力を与えるのは神’

今回の一節は、一見すると「人に頼らず、自分の力でやれ」という厳しい教えに見える。

しかし、読み返してみると少し違って見えてくる。

求められているのは、何もかも自力で成し遂げることではない。

自分の意思で歩くことである。

誰かが動いてくれるのを待つのではなく、自分から御用を始める。

道がなければ、自分で開こうとする。

そのうえで神’に頼る。

人に依存することと、神’を信頼することは同じではない。

自分が歩き、神’が助ける。

もしこの関係が成り立つのであれば、「道は自分で開くのぞ」という言葉は、孤独な自己責任論ではない。

神’とともに歩む者への、力強い励ましとしても読めるのではないだろうか。

書籍紹介|原文から『日月神示』を読みたい方へ

今回取り上げた一節だけでなく、『日月神示』は前後の帖や巻を続けて読むことで、同じ言葉が別の角度から照らされることがある。

解説を読むだけではなく、ぜひ原文そのものにも触れてみてほしい。

一度読んだときには気づかなかった言葉が、時間を置いて読み返すと、まったく違って見えることもある。

特に今回の「自分で歩く」「自分で御用する」「自分で道を開く」という言葉も、日月神示全体に流れる神’と人との関係を考えながら読むと、さらに意味が広がってくるのではないだろうか。

¥6,050 (2025/07/05 00:33時点 | Amazon調べ)
スポンサーリンク
険しい山道を自ら切り開き、雲間から差し込む神’の光へ向かって進む人

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次