神’に近づくとは、どのようなことなのでしょうか。
厳しい修行を重ね、普通の人とは違う特別な存在になることなのでしょうか。
日月神示は、もっと身近なところに一つの目安を示しています。
それは、「御用が嬉しくなる」ことです。
さらに、手は手の役、足は足の役を果たし、それぞれが本来の場所で働くことを「まことの姿」としています。
神’に近づくことは、自分の個性を捨てて一つになることではないのかもしれません。
むしろ、それぞれの個性が活かされ、それぞれが喜んで働く世界こそ、神’の仕組みなのではないでしょうか。
御用嬉しくなりたら神の心に近づいたぞ、
手は手の役、嬉しかろうがな、足は足の役、嬉しかろうがな、足はいつまでも足ぞ、手はいつまでも手ぞ、
それがまことの姿ぞ、逆立していたからよくわかりたであろうがな。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第13帖の一部
ここでは、神’に近づいているかどうかを測る一つの目安が示されます。
それは地位でも、知識でも、特別な能力でもありません。
自分に与えられた御用をすることが「嬉しい」と感じられるかどうかなのです。
神’に近づくほど、自分らしくなるのではないか
今回の箇所には、一見すると不思議なことが書かれています。
神’に近づく一方で、手はいつまでも手であり、足はいつまでも足だというのです。
神’に近づくのであれば、すべてが同じような存在になっていくようにも思えます。
しかし、日月神示が描いているのは逆なのではないでしょうか。
神’に近づくほど、それぞれが本来持っている役割や賜物が活かされていく。
手には手の喜びがあり、足には足の喜びがある。
そこには上下ではなく、それぞれに異なる働きがあります。
神’の世界とは、個性を消して均一になる世界ではなく、異なる個性が互いを活かしながら働く世界なのかもしれません。
逐次解説|御用の喜びと「手は手、足は足」の意味
御用が嬉しくなることは、神’になりつつある印なのか
御用嬉しくなりたら神の心に近づいたぞ、
神’に近づくとは、神’に近い存在に寄りつつあるということ。
神の子である我々が神に近づくとは、神’になりつつあるということではないでしょうか。
その目安は、神’の御業に働く時に喜びを感じるかどうか。
義務だからする。
命令されたからする。
褒められるからする。
そうではなく、神’の御業に加わることそのものが嬉しくなる。
そこまで心が変わってくれば、人の心が神’の心へと近づいているということなのでしょう。
御用とは、苦しみながら耐えて行うものとは限りません。
神’の心に近づくにつれて、御用そのものが喜びへと変わっていく。
ここには、霊的な成長を測る一つの目安が示されているように思います。
手はいつまでも手|神’となっても個性は失われない?
手は手の役、嬉しかろうがな、足は足の役、嬉しかろうがな、足はいつまでも足ぞ、手はいつまでも手ぞ、
また、手は手でも頭脳や霊的な意志のある手です。
万物を創り出す手です。
小さな神’が神国に満ち、それぞれが賜物を活かした働きをする。
そして、この国は世界へと広がっていく。
ここで気になるのが、「いつまでも」という言葉です。
なぜ、足は「いつまでも」足で、手は「いつまでも」手なのでしょうか。
人がいつか神となっても、好みや指向がある個性を維持した存在なのではないかと感じます。
そして、その個性が、その神が創る世界の個性となる。
一人ですべてを完結するのではなく、他を埋めるシステムを含めて神’としているようにも思います。
それぞれが異なるからこそ、互いを補い合うことができる。
個性が殺されることはない。
神の仕組みは永遠のものなのだろうと思います。
そう考えると、「手はいつまでも手ぞ、足はいつまでも足ぞ」という言葉には、単なる役割分担以上の意味があるように感じられます。
神’の世界とは、すべてを同じにしてしまう世界ではありません。
それぞれの個性が完全に活かされる世界なのではないでしょうか。
逆立ちをやめれば、日々は喜びへ変わる
それがまことの姿ぞ、逆立していたからよくわかりたであろうがな。
自分を誇って、見栄で自分の居る場所を定める。
本当は自分に合っていない場所なのに、そこにしがみついてしまうことがあります。
誇っているようで、実はとても苦しそうです。
確かに逆立ちを続けるのは辛いですよね。
本来、足で立てば楽なのに、わざわざ手で身体を支え続けている。
それが、これまでの人の世の姿だったということなのでしょう。
地位。
名誉。
肩書。
人からどう見られるか。
そうしたものによって、自分のいるべき場所を決めようとすれば、本来の自分とは違う姿を維持し続けなければなりません。
それを捨てることができれば、楽になり、日々が喜びへと変わる。
人を活かすのは、その人があるがままでいて良い世界なのだと思います。
手は手でいい。
足は足でいい。
誰かの役になる必要はない。
自分に与えられた賜物を使い、その場所で喜んで働く。
それが「まことの姿」なのでしょう。
「まことの姿」とは、自分の役を喜べる世界
今回の箇所を読むと、神’の仕組みとは、人を同じ型にはめるものではないように思えます。
手には手の役があり、足には足の役がある。
そして、それぞれが自分の役を嬉しいと感じる。
そこには「手の方が偉い」「足の方が下だ」という発想はありません。
問題は、自分ではないものになろうとして逆立ちしてしまうことです。
自分を大きく見せるために、本来いるべきではない場所へ行こうとする。
それが苦しみを生むのでしょう。
逆立ちをやめ、本来の姿へ戻る。
すると御用が苦役ではなく、喜びへと変わっていく。
そして、その喜びこそが、神’の心へ近づいている印なのかもしれません。
神’に近づくとは、自分を失うことではない。
むしろ、神’に近づくほど、本当の自分が現れてくる。
この一節は、そのようにも読むことができるのではないでしょうか。
書籍紹介|日月神示を原文から読みたい方へ
日月神示は、一つひとつの言葉が短くても、前後の帖や巻を通して読むことで見えてくるものがあります。
今回取り上げた「御用」「手と足」「逆立ち」といった言葉も、第13帖だけで完結するものではなく、これまで繰り返されてきた「岩戸開き」「元の姿」「役員」「神’の仕組み」とつながっています。
そのため、解説だけではなく、ぜひ日月神示そのものを原文で読み、自分自身で言葉のつながりを確かめてみてください。
同じ一節でも、読む時期や自分の置かれた状況によって、まったく違う意味が見えてくることがあります。


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