【日月神示】下つ巻 第13帖④|御用が嬉しくなれば神の心に近づく――手は手、足は足の「まことの姿」

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日月神示下つ巻第13帖の「御用が嬉しくなれば神の心に近づく」と手と足のまことの姿を表現したイメージ

神’に近づくとは、どのようなことなのでしょうか。

厳しい修行を重ね、普通の人とは違う特別な存在になることなのでしょうか。

日月神示は、もっと身近なところに一つの目安を示しています。

それは、「御用が嬉しくなる」ことです。

さらに、手は手の役、足は足の役を果たし、それぞれが本来の場所で働くことを「まことの姿」としています。

神’に近づくことは、自分の個性を捨てて一つになることではないのかもしれません。

むしろ、それぞれの個性が活かされ、それぞれが喜んで働く世界こそ、神’の仕組みなのではないでしょうか。

御用嬉しくなりたら神の心に近づいたぞ、

手は手の役、嬉しかろうがな、足は足の役、嬉しかろうがな、足はいつまでも足ぞ、手はいつまでも手ぞ、

それがまことの姿ぞ、逆立していたからよくわかりたであろうがな。

[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第13帖の一部

ここでは、神’に近づいているかどうかを測る一つの目安が示されます。

それは地位でも、知識でも、特別な能力でもありません。

自分に与えられた御用をすることが「嬉しい」と感じられるかどうかなのです。

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目次

神’に近づくほど、自分らしくなるのではないか

今回の箇所には、一見すると不思議なことが書かれています。

神’に近づく一方で、手はいつまでも手であり、足はいつまでも足だというのです。

神’に近づくのであれば、すべてが同じような存在になっていくようにも思えます。

しかし、日月神示が描いているのは逆なのではないでしょうか。

神’に近づくほど、それぞれが本来持っている役割や賜物が活かされていく。

手には手の喜びがあり、足には足の喜びがある。

そこには上下ではなく、それぞれに異なる働きがあります。

神’の世界とは、個性を消して均一になる世界ではなく、異なる個性が互いを活かしながら働く世界なのかもしれません。

逐次解説|御用の喜びと「手は手、足は足」の意味

御用が嬉しくなることは、神’になりつつある印なのか

御用嬉しくなりたら神の心に近づいたぞ、

神’に近づくとは、神’に近い存在に寄りつつあるということ。

神の子である我々が神に近づくとは、神’になりつつあるということではないでしょうか。

その目安は、神’の御業に働く時に喜びを感じるかどうか。

義務だからする。

命令されたからする。

褒められるからする。

そうではなく、神’の御業に加わることそのものが嬉しくなる。

そこまで心が変わってくれば、人の心が神’の心へと近づいているということなのでしょう。

御用とは、苦しみながら耐えて行うものとは限りません。

神’の心に近づくにつれて、御用そのものが喜びへと変わっていく。

ここには、霊的な成長を測る一つの目安が示されているように思います。

手はいつまでも手|神’となっても個性は失われない?

手は手の役、嬉しかろうがな、足は足の役、嬉しかろうがな、足はいつまでも足ぞ、手はいつまでも手ぞ、

また、手は手でも頭脳や霊的な意志のある手です。

万物を創り出す手です。

小さな神’が神国に満ち、それぞれが賜物を活かした働きをする。

そして、この国は世界へと広がっていく。

ここで気になるのが、「いつまでも」という言葉です。

なぜ、足は「いつまでも」足で、手は「いつまでも」手なのでしょうか。

人がいつか神となっても、好みや指向がある個性を維持した存在なのではないかと感じます。

そして、その個性が、その神が創る世界の個性となる。

一人ですべてを完結するのではなく、他を埋めるシステムを含めて神’としているようにも思います。

それぞれが異なるからこそ、互いを補い合うことができる。

個性が殺されることはない。

神の仕組みは永遠のものなのだろうと思います。

そう考えると、「手はいつまでも手ぞ、足はいつまでも足ぞ」という言葉には、単なる役割分担以上の意味があるように感じられます。

神’の世界とは、すべてを同じにしてしまう世界ではありません。

それぞれの個性が完全に活かされる世界なのではないでしょうか。

逆立ちをやめれば、日々は喜びへ変わる

それがまことの姿ぞ、逆立していたからよくわかりたであろうがな。

自分を誇って、見栄で自分の居る場所を定める。

本当は自分に合っていない場所なのに、そこにしがみついてしまうことがあります。

誇っているようで、実はとても苦しそうです。

確かに逆立ちを続けるのは辛いですよね。

本来、足で立てば楽なのに、わざわざ手で身体を支え続けている。

それが、これまでの人の世の姿だったということなのでしょう。

地位。

名誉。

肩書。

人からどう見られるか。

そうしたものによって、自分のいるべき場所を決めようとすれば、本来の自分とは違う姿を維持し続けなければなりません。

それを捨てることができれば、楽になり、日々が喜びへと変わる。

人を活かすのは、その人があるがままでいて良い世界なのだと思います。

手は手でいい。

足は足でいい。

誰かの役になる必要はない。

自分に与えられた賜物を使い、その場所で喜んで働く。

それが「まことの姿」なのでしょう。

「まことの姿」とは、自分の役を喜べる世界

今回の箇所を読むと、神’の仕組みとは、人を同じ型にはめるものではないように思えます。

手には手の役があり、足には足の役がある。

そして、それぞれが自分の役を嬉しいと感じる。

そこには「手の方が偉い」「足の方が下だ」という発想はありません。

問題は、自分ではないものになろうとして逆立ちしてしまうことです。

自分を大きく見せるために、本来いるべきではない場所へ行こうとする。

それが苦しみを生むのでしょう。

逆立ちをやめ、本来の姿へ戻る。

すると御用が苦役ではなく、喜びへと変わっていく。

そして、その喜びこそが、神’の心へ近づいている印なのかもしれません。

神’に近づくとは、自分を失うことではない。

むしろ、神’に近づくほど、本当の自分が現れてくる。

この一節は、そのようにも読むことができるのではないでしょうか。

書籍紹介|日月神示を原文から読みたい方へ

日月神示は、一つひとつの言葉が短くても、前後の帖や巻を通して読むことで見えてくるものがあります。

今回取り上げた「御用」「手と足」「逆立ち」といった言葉も、第13帖だけで完結するものではなく、これまで繰り返されてきた「岩戸開き」「元の姿」「役員」「神’の仕組み」とつながっています。

そのため、解説だけではなく、ぜひ日月神示そのものを原文で読み、自分自身で言葉のつながりを確かめてみてください。

同じ一節でも、読む時期や自分の置かれた状況によって、まったく違う意味が見えてくることがあります。

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