自分は何のために生きているのか。
神’は自分に何をさせようとしているのか。
その答えは、誰かから役目を与えられることで見つかるのではなく、自分の中から「自ずから」現れてくるものなのかもしれない。
下つ巻第13帖では、人の心と行いが神’の心に融けた時、それが「神の国のまことの御用の役員」であると示されている。
自分の指向、才能、賜物。そして自分が心からやりたいと思うこと。
それらは、神’が御業の中であなたに任せようとしている部分と、もともと重なっているのではないだろうか。
そして最後には、非常に印象的な言葉が置かれている。
「金銀要らぬ世となるぞ。」
これは単に貨幣がなくなるという話なのだろうか。
それとも、生きる目的そのものが変わる世界を示しているのだろうか。
この道の役員は、己が自分で自ずからなるのぞ、それが神の心ぞ。
人の心と行いと
の心に融けたら、それが神の国のまことの御用の役員ぞ、この道理分りたか。
この道は神の道ざから、神心になるとすぐわかるぞ、
金銀要らぬ世となるぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第13帖の一部
ここには、神’の御用と人間の人生が別々のものではなくなっていく姿が描かれているように思える。
神’に従うことと、自分らしく生きること。
その二つが一つになった時、自分の人生そのものが御用となるのではないだろうか。
神’の御用は「自分らしく生きること」と矛盾するのか?
宗教的な「御用」という言葉からは、自分を押し殺して神’のために働くような姿を想像するかもしれない。
しかし、第13帖から受ける印象は少し違う。
「己が自分で自ずからなる」とある。
つまり、自分の内側にある指向や才能、賜物まで否定して神’に従うのではない。
むしろ、それらが神’の御業の中で適材適所に配置されていく。
そう考えるなら、神’の計画と自分の夢は、必ずしも対立するものではない。
自分の人生を生きながら、それがそのまま神’の御業になっていく。
第13帖が語る「役員」とは、そのような生き方なのかもしれない。
逐次解説|神心と自分の人生が重なる時
役目は誰かに決められるのではなく「自ずからなる」
この道の役員は、己が自分で自ずからなるのぞ、それが神の心ぞ。
自分の指向や才能、賜物は、神’が御業の中であなたに任せたい部分と合っているのではないかと思う。
神’の適材適所の配剤である。
前回まで見てきたように、人の身体には手、足、目、鼻、口、耳があり、それぞれに異なる働きがある。
すべてが同じ役目をする必要はない。
人も同じなのだろう。
誰かの役割を羨み、その人になろうとするのではなく、自分に与えられたものを見つけていく。
そうしているうちに、役目は外から押し付けられるものではなく、「自ずからなる」のではないだろうか。
神’の御業と人生がシンクロしていく
人の心と行いと
の心に融けたら、それが神の国のまことの御用の役員ぞ、この道理分りたか。
岩戸が開く時に、まるで神’の御業とシンクロするように自分の居場所が定まっていく。
だから嫌々ではなく、しっかりと生き甲斐ともなっていく。
自分の夢を神’の計画に巻き付けて叶うようにするのは、無理ではなく、むしろ自然な成り行きなのだろう。
神’の計画だから自分の夢を捨てる、ということではない。
自分の夢と神’の御業が重なる場所を見つけるのである。
楽しみつつ神’に従い、御業に働くことができるという人生はどうだろう。
朝起きて、「今日もやらなければならない」と思うのではない。
「今日もこれをやりたい」と思える。
そして、その「やりたいこと」が神’の御業にもつながっている。
もし、そのような場所があるのなら、それこそが自分に与えられた役目なのかもしれない。
あなたのミッションは何だろうか?
神心になれば、自分の行く末が見えてくる
この道は神の道ざから、神心になるとすぐわかるぞ、
岩戸を開くなら、完全ではないにせよ、あなたの行く末はビジョンとなって感じているはず。
もちろん、未来の出来事がすべて見えるという意味ではない。
しかし、「自分はこちらへ進むのだろう」という方向性は、少しずつ見えてくるのではないだろうか。
神’の心と自分の心が近づいていけば、何を選ぶべきなのかも次第に分かってくる。
だから「神心になるとすぐわかるぞ」なのだろう。
頭だけで答えを探し続けるのではない。
神心に近づくことで、進むべき道そのものが見えてくるのである。
「金銀要らぬ世」とは、生きる目的が変わる世界なのか
金銀要らぬ世となるぞ。
幸福とは生き甲斐があること。
金銭はこの世が終われば、あなたにとって価値はなくなる。
クリスチャン的に言えば、復活してしまえば、食べるための金銭を得るために働く必要がなくなる。
そう考えるなら、「金銀要らぬ世」とは単なる経済制度の変化だけを指しているとは限らない。
人が生きるために金銭を追い続ける必要のない状態を示しているとも読める。
また神’は、現世でなんとか生きていく道筋は用意してくださっている。
お金持ちになれるかどうかはわからないが、過不足なくという塩梅が神’のバランスなのではと思う。
必要なものが与えられ、その中で自分の御用を果たしていく。
そして、そうでなくなるなら、
「もう帰ってきなさい」
となる。
そうなれば、来世での栄光の日々があなたを待っている。
だから、金銭を人生の最終目的にする必要はない。
問われているのは、どれだけ持っているかではなく、与えられた人生で何をしたのか。
そして、自分の心と行いをどこまで神’の心に融かしていけたのか、ということなのではないだろうか。
自分の夢と神’の計画が一つになる場所
第13帖のこの部分を読むと、「神’に従うこと」と「自分らしく生きること」は、本来対立するものではないように思える。
自分に与えられた指向、才能、賜物。
それを生かしているうちに、自ずから役目が定まっていく。
そして、人の心と行いが神’の心に融けていけば、自分の人生そのものが神’の御用になっていく。
そこには、嫌々働かされるという感覚はない。
むしろ生き甲斐がある。
自分の夢を追いながら、それが神’の計画にもつながっている。
そうした生き方の先に、「金銀要らぬ世」という言葉が置かれているのは興味深い。
何のために働くのか。
何のために生きるのか。
そして、自分には何が与えられているのか。
自分のミッションは、遠いどこかに隠されているのではない。
すでに自分の中に与えられているものの中に、その答えがあるのかもしれない。
日月神示を原文から読んでみる
日月神示は、一つひとつの言葉を切り離して読むよりも、前後の帖を含めて読み進めることで、繰り返し現れる言葉や思想のつながりが見えやすくなる。
今回取り上げた「役員」「神心」「御用」「金銀要らぬ世」についても、他の帖と読み合わせることで、また違った意味が浮かんでくるかもしれない。
ブログでの解読は私自身の考察を含んでいるため、興味を持った方は、ぜひ日月神示をまとめた書籍で原文にも触れてみてほしい。


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