日月神示は、ここで「一二三の仕組」と「三四五の仕組」という二つの言葉を示す。
一二三とは、「永遠に動かぬ道」。
そして三四五とは、その道を土台として、新たな御代を生み出していく仕組なのではないだろうか。
岩戸を開き、洗濯し、掃除する。それで終わりではない。
むしろ、そこからが本番なのだ。
臣民ばかりでないぞ、神々様にも知らせなならんから、なかなか大層と申すのぞ。
一二三の仕組とは、永遠に動かぬ道のことぞ、
三四五の仕組とは、みよいづの仕組ぞ、
御代出づとは、
の御代になることぞ、この世を
の国にねり上げることぞ、
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第14帖の一部
祀りたら三四五の御用にかかるから、そのつもりで用意しておいてくれよ。
ここで注目したいのは、「この世を神’の国にねり上げる」という言葉である。
これまで繰り返されてきた岩戸開きや洗濯、掃除は、単に人を清めるためだけのものではなかったのかもしれない。
その先にある「三四五の御用」のための準備だったと考えると、第14帖の見え方が大きく変わってくる。
岩戸開きの先に「本番」が待っている
ここまでの日月神示では、岩戸を開くこと、身魂を洗濯すること、掃除することが繰り返し語られてきた。
しかし、それらは目的そのものではなく、準備なのではないか。
一二三という動かぬ道を知り、その上に三四五の働きが始まる。
そして、その働きによって「神’の御代」が現れてくる。
第14帖は、これまで語られてきた教えが、いよいよ「世をつくる働き」へ移っていく転換点として読むことができそうだ。
逐次解説|一二三の道から三四五の御用へ
「神々様にも知らせなならん」とは誰のことか
臣民ばかりでないぞ、神々様にも知らせなならんから、なかなか大層と申すのぞ。
「神々様」とは皮肉かな?
私はここを、世の宗教家や聖職者をそう呼んでいるようにも読んでいる。
思い違いをしていることさえ分かっていない人たち。
あるいは、分かっているけれど、儲かるからやめられない人たち。
そういう人たちにも、一度は悔い改めを促さないとね。
あとで「知らなかったから」と言われてしまうよ。
これは、なかなか大変で、気の重い御業のひとつだと思う。
それでも、改心する人はいるからね。
気を抜いてはいけない。
一二三の仕組とは「永遠に動かぬ道」
一二三の仕組とは、永遠に動かぬ道のことぞ、
クリスチャン的に言えば、「救いの計画」のことだと私は考えている。
救いの根幹にかかわること。
この原則は変わらない。
だから背教があっても、必要だったのは改革ではなく「回復」だった。
そして私は「一二三」という言葉から、天父、イエス・キリスト、聖霊の神会を思い起こす。
三位一体ではなく、それぞれが個性を持つ存在として神を捉えるなら、三体三位であり、その呼称は「神会(しんかい)」となる。
この捉え方に立てば、真のキリスト教は「三神」という意味では多神的な構造を持つことになる。
さらに、カムイのような役割を果たす天使たちまで「神々」と捉えるなら、そこには八百万の神にも通じる世界観が見えてくる。
そう考えると、神道は新たな「回復」の種となるのかもしれない。
一二三とは、新しい宗教を作ることではない。
永遠に変わらないものへ返っていく道なのではないだろうか。
三四五の仕組は、真理から新しい世を生み出す
三四五の仕組とは、みよいづの仕組ぞ、
一二三が「永遠に動かぬ道」なら、三四五は、そこから動き出す力なのかもしれない。
そこから流れ出す力は転がる岩となって、打ち壊し、混ぜ返し、そして放置し、なすがままにするだろう。
その混沌の中から、真理を根にした新たな世を生み出す母体が現れる。
その核になるのは、各宗派の中でも「個人の啓示」を認め、推奨するところではないだろうか。
信者一人ひとりが真理を求めることを恐れない宗派だ。
ひとつの目安は、日月神示をそれぞれの立場から解くことを禁じないところだと思う。
上から答えを与えられるだけではなく、自ら求め、自ら問い、自ら神に尋ねる。
そこから三四五の仕組が動き始めるのかもしれない。
「御代出づ」――日本の岩戸開きは世界へ波及するのか
御代出づとは、
の御代になることぞ、この世を
の国にねり上げることぞ、
基本的に、日月神示は日本を対象にした預言として読むことができる。
しかし、ここでは「日本」ではなく「この世」となった。
この違いは大きい。
日本で起こる岩戸開きは、日本だけでは終わらない。
世界へ波及していく。
そう読むことができるのではないだろうか。
そして、それを阻止しようとして悪魔が破れかぶれに動き出す。
それが黙示録に描かれた終末の戦いと重なってくる。
最後は神一厘によって悪魔の軍勢が退けられ、千年王国へと至る。
私には、この「神一厘」がキリストの再臨と重なって見える。
神一厘とは再臨だよね。
どう考えても。
もちろん、日月神示とヨハネの黙示録を直接同一視できるわけではない。
それでも両者を重ねて読むと、「神’の御代になる」「この世を神’の国にねり上げる」という言葉が、単なる日本国内の変革を超えたものとして見えてくる。
三四五の御用――あなた自身が「転がる岩」になる
祀りたら三四五の御用にかかるから、そのつもりで用意しておいてくれよ。
岩戸開き、洗濯、掃除ができたら、臣民は本番の働きに移ることになる。
三四五の御用だ。
ここで思い起こすのが、旧約聖書『ダニエル書』第2章である。
ネブカデネザル王が見た夢の中で、人手によらず切り出された一つの石が巨大な像を打ち砕き、その石は大きな山となって全地に満ちる。
この「石」が登場するのは、ダニエル書2章34~35節である。
あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。
こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。
旧約聖書 日本聖書協会 口語訳 ダニエル書2章34-35節
そして、その意味についてダニエルはこう解いている。
それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。
旧約聖書 日本聖書協会 口語訳 ダニエル書2章44節
三四五の御用とは、この「転がる岩」のような働きなのではないか。
誰か偉大な人物だけが動かすのではない。
岩戸を開き、洗濯し、掃除を終えた一人ひとりが動き出す。
あなたが、この預言の成就に関わることになる。
わくわくする物語の、登場人物の一人になる。
それならば――
死を呑み込むだけの価値があると思わないか?
一二三は道、三四五はその道から始まる働き
第14帖のこの部分では、「一二三」と「三四五」が並べて語られている。
一二三は、永遠に動かぬ道。
三四五は、その道を土台として神’の御代を現していく働き。
そう整理すると、これまでの日月神示で繰り返されてきた岩戸開き、洗濯、掃除の意味も見えてくる。
自分だけが救われるためではない。
神’の御用にかかるためだ。
岩戸を開いたところが終点ではない。
そこが出発点なのだ。
そのつもりで用意しておいてくれよ。
この言葉は、いつか誰かに向けられたものではないのかもしれない。
これを読んでいる私たち自身に向けられた言葉だとしたら――。
何を用意しておけばいいのだろう。
書籍紹介|日月神示の原文を自分でも読んでみる
日月神示は、解説だけを読むのではなく、ぜひ原文そのものにも触れてほしい。
同じ一節でも、読む時期や自分の置かれた状況によって、まったく違う言葉が浮かび上がってくることがある。
私の解釈も、あくまで一つの読み方にすぎない。
だからこそ原文を手元に置き、自分自身で読み、自分自身で考えてみてほしい。
「一二三の仕組とは何か」
「三四五の御用とは何か」
その答えを最初から誰かに決めてもらうのではなく、自ら問い続けること自体が、この神示の読み方なのかもしれない。


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