日月神示の下つ巻第二帖は、「岩戸開き」の御用について、かなり具体的なことを語り始める。
岩戸開きというと、何か一つの巨大な出来事が起こり、閉ざされていたものが一気に開かれるようなイメージを持ちやすい。
しかし、ここで神’が語る岩戸は一つではない。
大工には大工の岩戸があり、左官には左官の岩戸がある。
つまり、それぞれの人が、それぞれの場所で、それぞれの「身魂相当の岩戸」を開くことが求められている。
まずは今回取り上げる原文を読んでみよう。
今度の岩戸開く御用は、人の五倍も十倍も働く人でないとつとまらんぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第2帖の一部
岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、
大工は大工の岩戸、左官は左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、
それぞれ身魂相当の岩戸開いてくれよ。
欲が出るとわからんことに、盲になるから、気つけるぞ。
「人の五倍も十倍も働く」と言われると、かなり厳しい。
だが、その直後には「それぞれの岩戸」があると続く。
すべての人が同じことをするのではない。それぞれが自分に与えられた場所で岩戸を開く。
そして最後には「欲が出ると盲になる」と釘を刺される。
御用に励め。しかし、それを自分の欲のために使うな。
第二帖の冒頭には、岩戸開きに携わる者への重要な心得が凝縮されているように思える。
岩戸開きとは、一人の英雄が成し遂げるものではない
「岩戸開き」という言葉から、歴史を変えるような一人の人物や、大きな宗教的事件を想像する人もいるだろう。
しかし、この帖の面白いところは、むしろ逆のことを語っているように見える点にある。
大工には大工の岩戸がある。
左官には左官の岩戸がある。
ならば、教師には教師の岩戸があり、農家には農家の岩戸があり、会社員には会社員の岩戸があり、宗教者には宗教者の岩戸があるのだろう。
岩戸開きとは、どこか遠くで誰かがやってくれるものではない。
それぞれが自分の持ち場で、自分に与えられたものを開いていく。
そう考えると、「身魂相当」という言葉の意味も見えてくる。
逐次解説|それぞれの岩戸を開くとはどういうことか
人の五倍も十倍も働く――岩戸開きの御用は甘くない
今度の岩戸開く御用は、人の五倍も十倍も働く人でないとつとまらんぞ。
巨人の星などスポ根の「限界を超えてもまだ行くぞ!」の世界観なのだろうか?
最近なら「鬼滅の刃」だろう。
「やった!」と思う度に次があって、それが幾重にも……。
神’はそうする方だ。
一つの課題を越えて、「これで終わった」と思ったところに、また次の課題が現れる。
それを越えれば、さらにその先がある。
だから「人の五倍も十倍も働く」なんだろう。
単純に労働時間を五倍、十倍にするという意味ではなく、それほど次々と御用が現れ、それに応えていかなければならないということなのかもしれない。
岩戸開きとは、一度の大仕事で終わるようなものではないのだろう。
岩戸は一つではない――自分の区分だけを見ていては気づけない
岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、
イエス・キリストの真の教会は、普通の宗教の中に埋もれている感じで推移している。
祝福したら難病もたちどころに治す、というパフォーマンスをするわけでもない。
イエス・キリストの栄光を現す地味な活動を、辛抱強く続けている。
救いの方法(福音)を普通に、目立たずに伝えている。
そこに大切な意味がある。
しかし、この国が聖約の民の回復へと至る時に、その地味な活動と結びついていると気が付く人たちはどれだけいるだろうか?
そして真の教会の人達にとっても、「我が民」との結びつきをどれだけ感じ取ることができるだろうか?
多分だけど、自分の区分だけ見ているなら終わりまで気づけないだろう。
よそ見が癖のへそ曲がり以外は……。
「それぞれの岩戸がある」という言葉は、自分が直接関わっている場所だけを見ていては、岩戸開きの全体像は見えてこないという意味にも読める。
一見すると無関係に見える働きが、後になって一つにつながっていたと分かる。
そんな仕組みなのかもしれない。
大工は大工、左官は左官――この言葉には別の意味も隠れているのか
大工は大工の岩戸、左官は左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、
これ、イエス・キリストの職業は大工だったが、あの地域での「大工」は木工だけに限定されず、石材を扱う建築職人を含み得る。
そう考えると、石工や左官にもつながってくる。
真相をやんわりと語っているようにも見えないだろうか?
また神道とは、少なくとも日月神示が示している世界には、メーソンのような「建てる者」「石を組む者」を連想させる象徴が暗に含まれているのではないか、とも思う。
もちろん、これは日月神示とフリーメーソンが直接関係しているという意味ではない。
あくまで象徴として読んだ場合の話である。
大工、左官、岩戸――。
チラリと岩戸開けになっている。
ここでビビッときた人は「わかってる」人だね。
身魂相当の岩戸――自分に与えられた場所から開いていく
それぞれ身魂相当の岩戸開いてくれよ。
了解。
ミツゲはクリスチャンの立場から開いていこう。
すべてを一人で理解し、すべてを一人で開く必要はないのだろう。
それぞれに与えられた立場、経験、知識、信仰がある。
それぞれが自分の岩戸を開けばいい。
これらがその通りになると、眠る間もない忙しさになると思う。
教えることで目一杯の労働になるだろう。
ある人は神道から。
ある人はキリスト教から。
ある人は歴史から。
ある人は言葉から。
また別の人は、まったく違う分野から岩戸を開いていくのかもしれない。
それぞれに互いに連携しつつ、独立しつつ、忙しい日々を過ごすことになるよ。
欲が出れば盲になる――御用を商売に変えてはならない
欲が出るとわからんことに、盲になるから、
気つけるぞ。
で、「こりゃ、やりようで、いくらでも儲かりそう」と欲をかいて、新興宗教の教祖などにならぬように。
せいぜい、大根一本でももらって感謝しつついただくぐらいにしとけ。
ここは笑い話のようでいて、とても重要な勧告だと思う。
神’の御用をしているつもりでも、そこに名誉欲、金銭欲、支配欲が入り込んでくると、いつの間にか御用そのものが変質してしまう。
本人だけが、それに気づかない。
だからこそ「盲になる」と表現されているのではないだろうか。
イエス・キリストもまた、地上の富ではなく「天に宝を蓄えなさい」と教えた。
神’からの祝福と、天に蓄えられていく宝を損なうような生き方を選ばぬようにしたいもの。
自分の岩戸を開く――それが大きな岩戸開きにつながる
第二帖の冒頭から見えてくるのは、岩戸開きが一人の英雄や一つの宗教によって行われるものではない、という姿である。
「それぞれの岩戸」があり、「身魂相当」の御用がある。
ならば大切なのは、他人の岩戸を羨んだり、自分だけがすべてを開こうとしたりすることではない。
自分に与えられている岩戸は何なのか。
それを見つけ、自分の場所から開いていくことなのだろう。
そして、いくら御用が進んでも欲に目を奪われないこと。
人の五倍、十倍と働きながら、それを自分の名誉や利益に変えない。
これはなかなか難しい。
だからこそ神’は、第二帖の冒頭からわざわざ「気つけるぞ」と警告しているのだと思う。
それぞれが、それぞれの岩戸を開く。
やがて別々に見えていた岩戸開きが一つにつながった時、初めて「今度の岩戸開き」の全体像が見えてくるのかもしれない。
書籍紹介|『日月神示』を原文から読み解く
日月神示は、岡本天明によって自動書記されたとされる膨大な神示であり、部分的な引用だけでは、その言葉が置かれている前後関係を見失うことがある。
本ブログでは一文ずつ取り上げながら解読しているが、自分自身で読み進めたい方には、日月神示の原文をまとめて収録した書籍を手元に置いておくことをおすすめしたい。
同じ言葉や主題が別の帖でどのように語られているかを照らし合わせると、一つの帖だけでは見えなかったつながりが浮かび上がってくる。


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