「神の御用」と聞けば、俗世の仕事から離れ、神のためだけに働くことを思い浮かべるかもしれない。
宗教活動に専念することこそ、より神聖な生き方である――そんな考え方もあるだろう。
ところが、日月神示はまるで逆のことを言う。
神の御用と申して自分の仕事休むような心では、神の御用にならんぞ。
どんな苦しい仕事でも、今の仕事、十人分もして下されよ。
神は見通しざから、次々に善きようにしてやるから、欲出さず、素直に今の仕事致しておりてくれよ、
その上で、
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第2帖の一部の御用してくれよ。
まず、自分の仕事をする。
しかも「十人分もして下されよ」とまで言う。
そして、その上で神’の御用をせよというのである。
ここには、宗教を生業にして生きることとはかなり違った「神の御用」の姿が示されているように思う。
神の御用は、日常を捨てたところにあるのではない
この一節で印象的なのは、神の御用と日常生活とが切り離されていないことである。
むしろ順序は明確だ。
まず、自分に与えられている仕事をする。
生活を営み、自分の足で立つ。
そして、その上で神’の御用をする。
神のために働くという名目で、自分の生活を誰かに支えてもらうことを当然とするのではない。
日常の仕事そのものをしっかり果たした者が、さらに神’の御用を担う。
かなり厳しい要求にも見えるが、日月神示がいう「御用」の性格を考えるうえで重要な一節ではないだろうか。
逐次解説|自分の仕事を果たした上で神’の御用をせよ
神の御用を生業にしてはならない
神の御用と申して自分の仕事休むような心では、神の御用にならんぞ。
神の御用で食っていくという発想は否定されてしまったね。
つまり神の御用自体を職業にはできない。
信者のお布施で日々を生きていくような生き方はできない。
自分の生活を豊かにするための教会は作れない。
神の御業ではなく、あくまでも自分の生業で自立して生きていくことが求められている。
確かに神示を喰い物にするような生き方をすると、霊は貧しくなる気がする。
もちろん、これはあらゆる宗教者が報酬を受け取ること自体を否定している、とまで一般化する必要はないだろう。
ここで問われているのは、少なくとも「神の御用」を理由にして本来果たすべき自分の仕事を放棄する心なのだと思う。
「今の仕事、十人分もして下されよ」
どんな苦しい仕事でも、今の仕事、十人分もして下されよ。
十人分だってさ。
どんなに苦しい仕事でもだってさ。
それができるという約束でもあるんでしょ?
ならば普通に仕事をするのなら楽々のはずじゃない?
もちろん「十人分」を文字通り十人分の労働時間として受け取れば、無茶な話になってしまう。
むしろ、神の御用をする者だから仕事を疎かにしてよいのではなく、人一倍、自分に与えられた仕事に力を尽くせということなのだろう。
神の御用とは、現実から逃げるための理由ではない。
むしろ現実の中で、人一倍働くことを要求されているように読めるのである。
「次々に善きようにしてやる」という約束
神は見通しざから、次々に善きようにしてやるから、欲出さず、素直に今の仕事致しておりてくれよ、
生業で働いて充分に生活が成り立つようにしてくれるということかな?
それにしては失業したり、時代の波で仕事がなくなったりという影響からは逃れられないこともあるけどね。
試練はなくならないというか、普通の人よりも試練は多く仕組まれているようにも感じるのだが?
鍛えられているんだといえば、その通りなんだが、釈然としないとも思う。
それでも細糸一本でつながって生きてこれたという奇跡は実感している。
ここでいう「善きようにしてやる」とは、何も苦労のない人生を保証する言葉ではないのだろう。
自分が思い描いた「善い結果」と、神から見た「善きよう」は、必ずしも同じではない。
失うこともある。
行き詰まることもある。
それでも後から振り返ると、なぜか道だけは残されていた――そんな形で現れる「善きよう」もあるのかもしれない。
あなたの人生ではどうだったかな?
「その上で」神’の御用をする
その上で、
の御用してくれよ。
神’の御用は余暇での活動でいいのかな?
そういった小さな働きによって神の業が進んでいくともいえる。
それでも、まだ平穏さがある世の中は、だと思うな。
事が起きれば、生き延びること自体が日々の仕事になる気がする。
その上で神の御業で動くことになるのだろう。
それまでは・・・だね。
重要なのは、やはり「その上で」という言葉だと思う。
今の生活を放り出して、神の御用へ走れとは書かれていない。
働く。
生活する。
家族や周囲への責任を果たす。
その日常の上に、神’の御用を重ねていくのである。
しかし世の中が大きく変われば、その形も変わるのだろう。
平穏な時代には小さな御用だったものが、非常時には人を助け、生き延び、支え合うことそのものになるのかもしれない。
神の御用とは、まず今日をきちんと生きることなのかもしれない
今回の神示は、神の御用を何か特別な宗教活動として考えていると、かなり意外な内容である。
神の御用を理由に仕事を休んではならない。
苦しい仕事であっても、十人分するほどの気持ちで働け。
欲を出さず、今の仕事を素直に続けよ。
そして――その上で神’の御用をせよ。
神の道を歩むことと、現実社会で生きることは別々ではないのだろう。
むしろ、目の前にある仕事を疎かにせず、自分の生活を自分で支え、その中で神のためにできることをする。
それが、この一節に示された御用の基本なのかもしれない。
特別なことを始める前に、今日の仕事をする。
案外そこから、神’の御用は始まっているのではないだろうか。
書籍紹介|日月神示の原文を手元で読む
日月神示は、一部分だけを取り出して読むと、その言葉の強さに引っ張られてしまうことがある。
今回の「十人分もして下されよ」という言葉も、前後の文脈とともに読むことで、「神の御用」と日常の仕事との関係が見えてくる。
逐次解読を読みながら、自分自身でも原文を前後へたどってみたい方は、日月神示の原文をまとめた書籍を手元に置いておくと便利である。
同じ言葉が別の帖でどのように語られているのかを追っていくと、一つの帖だけでは見えなかったつながりも見えてくるだろう。


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