日月神示・下つ巻第三帖では、いきなり「神’のまことの姿」という、非常に興味深い言葉が出てくる。
しかも、その姿は人が直接見れば「びっくりして気を失うかもしれん」というほどのものであり、そのためなのか、神’は「石に彫らせて」「木の型」を与えたという。
では、その石や木とは何だったのだろうか。
岡本天明の周辺で実際に何が起こったのか。それを特定できれば話は早いのだが、現在確認できる資料だけでは、私には具体的な事物を特定することができない。
そこで今回は、史実から答えを探すというより、神示そのものの言葉を追いながら、「神’のまことの姿」とは何を意味しているのかを考えてみたい。
この
のまことの姿見せてやるつもりでありたが、人に見せると、びっくりして気を失うかもしれんから、
石に彫らせて見せておいたのに、まだ気づかんから、木の型をやったであろうがな、
それが
のある活動の時の姿であるぞ、
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第3帖の一部
の見せ物にしてはならんぞ、お山の骨もその通りぞよ。
ここで語られているのは、単なる比喩なのだろうか。
それとも、本当に何らかの「神’の姿」を示すものが、石や木という具体的な形で存在していたのだろうか。
石と木に示された「神’の姿」をどう読み解くか
この部分を解読するうえで難しいのは、岡本天明の周辺で起きた出来事について、私自身が十分な一次資料や詳細な記録を持っていないことである。
そのため、岡本天明の履歴や関係者の記録などから、「石に彫らせたもの」「木の型」が具体的に何を指すのかを特定するには、ネット上の資料などを探索していくことになる。
しかし、現時点では何があったのかは不明に近い状態だ。
そこで今回は、これは預言の解読であるという原点に戻り、神示自体の言葉から解いてみたい。
逐次解読|石と木に示された「神’のまことの姿」
神’の姿を直接見れば、人は耐えられないのか
この
のまことの姿見せてやるつもりでありたが、人に見せると、びっくりして気を失うかもしれんから、
ここを素直に読むと、神の顕現の可能性があったのか? という疑問が出てくる。
もちろん物理的に目の前へ現れるという意味だけではない。示現という形で神が現れる可能性もある。
内々にでも本当の神の姿を目の当たりにするとすれば、それはすごい経験になるだろう。
そして、もしそこで見たものが神’の真の姿であるならば、それは女神などでもなく、一般に知られているイエス・キリストの姿でもないのかもしれない。
私たちはイエス・キリストについても、長い西洋美術の影響によって「白人のような姿」という刷り込みを受けている。
それと同じように、私たちが「神」と聞いて思い浮かべる姿そのものが、人間側の先入観によって作られている可能性がある。
ならば「神’のまことの姿」とは、人々の先入観の外を突くものなのではないだろうか。
そして、栄光に満ちた神を目にするということは、たとえ示現であったとしても、肉体に与えるダメージが大きいらしい。
それでも、たとえ寿命を多少なりとも犠牲にすることになったとしても、神に会いたいと思う者はいるだろう。
この神示の言葉からは、それほどまでに人間の通常の感覚を超えた「姿」が想定されているように思えるのである。
石と木に残された「型」とは何だったのか
石に彫らせて見せておいたのに、まだ気づかんから、木の型をやったであろうがな、
これは非常に具体的な表現である。
「石に彫らせて」「木の型をやった」とあるため、単数なのか複数なのかは別として、何らかの具体的な事物が存在するようにも読める。
しかし、それが何であったのかという記録は定かではないらしい。
岡本天明は画家でもある。
ならば石や木の彫像でも制作したのだろうか、という可能性も考えたくなる。
一方で、もっと一般に知られている、ありふれた事物が対象である可能性もある。
つまり、誰もが見ているのに、それが「神’の姿」だとは気づいていない。
「まだ気づかんから」という言葉を重視すると、むしろこちらの可能性も面白い。
真の神の御姿だとはすぐに気づかない形で、そっと置かれていたのだろうか。
そして「それが神の姿なのだ」と教えられて、初めて気づく。
もしそうであれば、知らない者にとっては意表を突く形になるだろう。
それか――。
目に見える石や木そのものが答えなのではなく、それらはあくまで象徴であり、聖霊を通して、その意味を深く理解する形になるのかもしれない。
私には、そういった表現方法のほうが相応しいようにも思える。
神の姿そのものを物体に閉じ込めるのではなく、物体を「型」として、その背後にあるものを悟らせるのである。
「ある活動の時の姿」とは、いつの神’なのか
それが
のある活動の時の姿であるぞ、
ここでさらに謎が深くなる。
「神’の姿」で終わっていない。
「ある活動の時の姿」なのである。
では、「ある」とは、どの時点での神’なのだろう。
創造神として活動する神。
先祖の前に肉体をもって現された神。
岩戸に隠れた神。
あるいは、これから岩戸を開く神。
考えられるものがあり過ぎて、当てが定まらない。
しかし逆にいえば、この一文は「神’のまことの姿」が常に固定された外見を意味しているわけではないことを示しているのかもしれない。
「ある活動の時の姿」という限定が付いているからである。
だとすれば、石や木で示されたものも、「神そのものを写した像」というより、神’がある働きをするときに現す姿、あるいはその働きを象徴する「型」として考えたほうがよいのかもしれない。
神’を「見せ物」にしてはならない
の見せ物にしてはならんぞ、お山の骨もその通りぞよ。
「見せ物にしてはならん」。
この言葉も気になる。
拝観料を取って展示する――ということは……むしろ、あり得る話ではある。
しかし、ここで示されているものが本当に神’に関わる事物であるならば、それを単なる珍品や観光資源として扱うことを戒めているのではないだろうか。
もちろん、偶像崇拝のための像にするということでもないだろう。
現代風に言えば、神の教えを伝えるための「マルチメディア」といったところだろうか。
形あるものを通して、その向こうにある神の働きを感じ取らせるのである。
実際、そういった像などを前にすると、強い霊感がやってくるという経験はある。
ところが、どれほど強い霊感を与えるような事物であっても、わからない人にとっては「無」と同じなのだ。
そこに置かれている。
誰でも見ることができる。
しかし、その意味を知らなければ何も見えない。
私は、神の事物には、このような「開いて隠ぺい」という手法をよく見かける。
完全に秘密にして隠すのではない。
目の前に堂々と置いておきながら、理解する者にだけ意味が開かれる。
そんな手法は、聖文の中にも仕掛けとして施されていたりする。
「石」「木の型」、そして「お山の骨」もまた、そうした神の仕掛けの一つなのだろうか。
神’の姿は隠されているのではなく、目の前にあるのかもしれない
今回の部分を読んでも、「石に彫らせたもの」「木の型」「お山の骨」が具体的に何なのかは、まだわからない。
無理に特定するべきでもないだろう。
しかし神示の文章そのものから、一つ興味深い構図が浮かび上がってくる。
神’はまことの姿を示そうとした。
しかし、人が直接見れば耐えられないかもしれない。
そこで石に彫らせた。
それでも気づかないので木の型を与えた。
それでも、それを「見せ物」にしてはならないという。
つまり重要なのは、物そのものを珍しがることではなく、そこに示された「型」から神’の働きを読み取ることなのだろう。
もしかすると、神の秘密とは厳重に隠されているものばかりではない。
誰の目にも見えるところに置かれているのに、それが何であるのか気づかない。
「まだ気づかん」という言葉には、そんな神示独特の仕掛けが潜んでいるように思えるのである。
書籍紹介|日月神示の原文を手元で読み解く
日月神示を逐次的に読み解いていく場合、解説書だけではなく、できるだけ原文そのものを繰り返し読むことが重要になる。
今回の「石」「木の型」「ある活動の時の姿」のような言葉も、前後の帖や別の巻に現れる言葉と照らし合わせることで、後になって意味がつながってくる可能性がある。
日月神示の原文をまとめた書籍を手元に置いておけば、気になる言葉が出てきたときに前後を確認し、自分自身で読み返すことができる。
このブログでの解読も一つの読み方として参考にしながら、ぜひ原文そのものにも触れてみてほしい。


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