この世界で起きていることを、人の目だけで見れば偶然や不条理に思えることもある。
しかし日月神示は、「何もかも神’がさしてある」と語る。
すべてが最初から人間に明かされているわけではない。それでも、神’の仕組を知るためのヒントは、すでにこの世界の各所に置かれているのではないだろうか。
そして神’の仕組が現実の出来事として現れ始めたとき、人々は否応なく神’について語り始める。
今回は、下つ巻第三帖の後半から、そんな「神’の仕組」と預言の成就について考えてみたい。
これまで見せてもまだわからんか、何もかも
がさしてあるのぞ。
心配いらんから欲出さずに、素直に御用きいて下されよ、
今度のお山開き、まことに結構であるぞ。
が烈しくなると、
の話より出来んことになるぞ、
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第3帖の一部
の話結構ぞ。
ここで語られているのは、ただ未来を恐れよという話ではない。
むしろ「心配いらん」と言っている。
神’の仕組を知ることと、恐怖に支配されることは違う。何が起ころうとしているのかを見ながら、それでも欲を出さず、素直に自分の御用を果たしていく。
そこに、この一節を読む重要な鍵があるように思う。
「何もかも神’がさしてある」という世界観
今回の一節を貫いているのは、この世界が神’の働きから切り離されてはいないという考え方である。
人間から見れば偶然に見える出来事も、大きな仕組の中に置いて見るなら、違った意味を持ってくるかもしれない。
だからこそ日月神示は、心配するよりも「欲出さずに」「素直に御用きいて」ほしいと語るのだろう。
そして「お山開き」を経て神’の働きが烈しくなれば、それまで神’に関心を持たなかった人々まで、神’について語らざるを得ない時代が来る。
この流れを順番に読んでいこう。
逐次解説|神’の仕組から「神’の話より出来ん」時代へ
世界にはすでに神’の仕組を知るヒントがある
これまで見せてもまだわからんか、何もかも
がさしてあるのぞ。
この世界の全ては神’プロデュース。
未だ創造の最中なんだ。
全てはまだ明かされていないにしても、ヒントは各所にあるから、あとは気づいて少し考えるだけ。
この世界が無事に過ぎ去るまで、勝手に滅びる者はいないことがわかると思う。
「何もかも神’がさしてある」という言葉をそのまま受け取るなら、人間の目には混乱して見える世界にも、神’の意図や働きがあるということになる。
だから、目の前の出来事だけを見て「もう終わりだ」と決めつける必要もない。
まだ見えていないものがある。
まだ明かされていない仕組がある。
そのことを前提に世界を見るなら、今までとは違った景色が見えてくるのではないだろうか。
神’の御用には日々の平穏もくっついてくる
心配いらんから欲出さずに、素直に御用きいて下されよ、
神の御用は日々の平穏がくっついた状態で我々に渡される。
「心配いらん」という言葉は大きい。
御用をするというと、何か特別な使命を背負い、苦難の中へ飛び込んでいくような印象を持つかもしれない。
しかし、ここではまず「心配いらん」と言われている。
欲を出して自分から余計なものを掴みに行くのではなく、素直に目の前に渡された御用を聞いていけばよいということだろう。
では、波乱万丈にあっても大丈夫ということか?
少なくともこの一節からは、神’の御用に従う者に対して、恐怖ではなく安心を先に与えようとしているように読める。
「お山開き」は神国という山を開くことなのか
今度のお山開き、まことに結構であるぞ。
まずは神国という山(神殿)を開く。
この国と臣民は、世界が山(神殿)となるため「からし種」となる定め。
小さなからし種から大きなものが生まれるように、まず一つの場所、一つの民、一つの小さな始まりから、神’の仕組が世界へ広がっていく。
そのように「お山開き」を捉えることもできるのではないだろうか。
山を単なる地形としてではなく、神’の臨在する場所、すなわち神殿の象徴として読むなら、「お山開き」は世界そのものが神’の宿る場所へと変わっていく、その最初の扉を開くこととも考えられる。
神国が先に開かれるのは、それ自体が目的なのではない。
世界を開くための「からし種」なのだと思う。
預言が現実になれば「神’の話より出来ん」ようになる
が烈しくなると、
の話より出来んことになるぞ、
預言で言われていたことが現実になり始めると、神’にかかわる話題で持ち切りとなるだろう。
預言の成就がより進むと加熱していくと思われる。
かと思えば、次の成就までは数十年とか普通にあるので、「のど元過ぎれば」が起こるだろう。
人は大きな出来事が起きた直後には、その意味を考える。
しかし時間が経てば忘れてしまう。
そして油断して、次の災いにまたひっかかる。
猶予を与えるのは神の配慮なのに、それをまるで悪魔の仕業のように捉える者も出てくるだろう。
しかし預言というものを長い時間軸で見れば、成就と成就の間に長い期間が置かれること自体、不思議ではない。
むしろ、その間に考え、気づき、改める時間が与えられているとも考えられる。
「神’が烈しくなる」というのは、単に災害や混乱が激しくなるという意味だけではなく、神’の仕組が誰の目にも見える形で表面化していくことなのかもしれない。
そうなれば確かに、人々は「神’の話より出来ん」状態になるだろう。
辛抱強く希望を持って神’事を語ろう
の話結構ぞ。
辛抱強く希望を持って神’事を語ろう。
預言は解釈が正しければ、その通りになる。
解釈が外れても、本物は「ここしかない」というところで、しっかりはまるようになっている。
預言解釈で気をつけなければならないのは、自分の解釈を預言そのものだと思い込まないことである。
解釈する人間は間違える。
時期を間違えることもあれば、象徴の意味を取り違えることもある。
しかし本物の預言なら、実際にその時が来たとき、「これだったのか」としか言いようのない場所にはまるはずである。
無理に現実を預言へ押し込む必要はない。
その時が来れば、向こうから預言の言葉にはまってくる。
そんな時を観測してみたくて、ミツゲは預言解釈にはまっている。
だから、外れることを恐れて預言について何も考えないのではなく、かといって自分の解釈を絶対視するのでもなく、辛抱強く希望を持って神’事を語り続けたい。
「神’の話結構ぞ」とは、そんな姿勢への励ましでもあるのではないだろうか。
神’の仕組を恐れるのではなく、観測し続ける
今回の一節では、「何もかも神’がさしてある」という非常に大きな世界観が示されている。
それだけを聞けば、人間には何もすることがないようにも思える。
しかし、続く言葉はそうではない。
「欲出さずに、素直に御用きいて下されよ」とある。
つまり、大きな仕組は神’に委ねながら、人には人の御用があるということだ。
そして神’の働きが烈しくなれば、人々は神’について語らざるを得なくなる。
預言の成就は一度にすべて起こるとは限らない。
長い猶予が置かれ、そのたびに人は忘れ、また思い出すのかもしれない。
だからこそ、焦らず、恐れず、決めつけずに観測していきたい。
本物なら、いつか「ここしかない」というところにはまる。
その時まで、希望を持って神’事を語っていけばよいのだと思う。
書籍紹介|『完訳 日月神示』で原文全体を読む
日月神示は、一部分だけを切り取って読むよりも、前後の帖や巻を通して読むことで、繰り返し現れる言葉や思想のつながりが見えやすくなる。
逐次解読の記事では一つひとつの言葉を細かく見ているが、自分自身で原文全体を読み、前後を確認することも大切である。
『完訳 日月神示』は、岡本天明によって記された日月神示をまとめて読みたい人にとって、手元に置いて参照しやすい一冊である。
気になった言葉があれば、その帖だけで判断せず、前後の文章や別の巻で同じ言葉がどのように使われているのかを確かめてみると、また違った読み方が見えてくるだろう。


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