前回は、「五十九の岩」と「五十九の石」を手がかりとして、神’とヤハウエ、そしてイエス・キリストへとつながる可能性を読み解いた。
下つ巻第四帖は、そこからさらに踏み込んで、「五十九の石の宮」が出来たこと、そして「五十九の石身魂」が神’によって引き寄せられることを告げている。
もしこの読みが現実の出来事として現れるなら、それは単なる宗教上の事件ではない。日本人が、自分たちは何者なのか、日本という国がなぜこれほど長く独自の祭祀を守ってきたのかを、改めて問い直すほどの出来事となるだろう。
そして、その出来事の中心にいるのが「御苦労の身魂」である。
五十九の石の宮出来たから、五十九の石身魂、いよいよ
が引き寄せるから、しっかりしておりて下されよ、
今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。
人のようせん辛抱さして、生き変わり死に変わり修行さしておいた昔からの因縁の身魂のみざから、
見事御用つとめ上げてくれよ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第4帖の一部
ここでは、神’によって引き寄せられる者たちが、なぜ「御苦労の身魂」と呼ばれるのか。
さらに「生き変わり死に変わり」とはいったい何を意味しているのか。
私なりの仮説をさらに進めてみたい。
五十九の石身魂が動き始めるとき
この部分には、二つの大きな動きが重ねられているように思える。
一つは「五十九の石」をめぐる現実世界の出来事であり、もう一つは、その出来事に合わせて「五十九の石身魂」が引き寄せられていくという、人の側の動きである。
石だけが動くのではない。
その石に関わるべき「身魂」もまた動き始める。
そして私は、その先に日本から聖地へと向かう大きな流れ――いわば「出日本」とでも呼ぶべき出来事が待っているのではないかと考えている。
逐次解説|五十九の石身魂と「出日本」の始まり
五十九の石身魂が引き寄せられる
五十九の石の宮出来たから、五十九の石身魂、いよいよ
が引き寄せるから、しっかりしておりて下されよ、
前回までの解読では、「五十九」が神’とヤハウエ、そしてイエス・キリストを結びつける鍵ではないかと考えた。
もしこれが現実の出来事として姿を現すなら、普通の日本人にとっては驚天動地の出来事となる。
それまで日本固有のものだと思われていた祭祀や神器について、まったく異なる歴史的・宗教的意味が浮かび上がる可能性があるからだ。
そのとき、日本人である自分は何者なのかを改めて問い直すことになるだろう。
私は、この「引き寄せ」が神器の強奪とその失敗に関係すると考えている。
何者かが神器を奪おうとする。
しかし、それは失敗する。
ところが、その失敗そのものによって、それまで秘されていた神器の正体が白日のもとにさらされてしまう。
隠そうとして起こした行動が、逆に隠されていたものを世界に示す結果となるのである。
「神’が引き寄せる」とは、人間の思惑を超えて、その事件に関係する者たちが一つの場所、一つの出来事へと集められていくことを表しているのかもしれない。
「御苦労の身魂」と出日本
今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。
この出来事そのものは祝福なのだと思う。
しかし、神器の奪取が失敗するところには、神’の手が働いている。
敵はどんな手を使ってでも、その意味を誤魔化そうとするだろう。
だが、あまりにも劇的な出来事となるため、完全に覆い隠すことはできない。
ならば次に、何らかの支援と引き換えに、日本人の祭司たちへ神器を聖地まで運ぶよう要請することになるのではないか。
ここから「出日本」が始まる。
かつてイスラエルの民がエジプトを出たように、今度は神器がお神輿としてシルクロードを通り、聖地へ向かって移動する。
そして、その沿線の臣民を隊列に加えながら進んでいく。
世界中の人々が、その光景を見守ることになる。
それは「イスラエルの集合」が、誰の目にも見える形で現実世界に姿を現す出来事なのかもしれない。
私は、この出来事はいずれ成就すると考えている。
しかし、それは華々しい祝祭だけではない。
大いなる苦難と並行して起こる出来事でもあり、黙示録の最終章が始まったことを告げる徴ともなるだろう。
だからこそ彼らは、「御苦労の身魂」と呼ばれるのではないだろうか。
「生き変わり死に変わり」とカムイの仕組み
人のようせん辛抱さして、生き変わり死に変わり修行さしておいた昔からの因縁の身魂のみざから、
ここでいう「生き変わり死に変わり」を、私は一般的な意味での輪廻転生とは考えていない。
そこには、いわば「カムイの仕組み」による転生のようなものがあるのではないか。
彼らは、まるで厳しい修行や宿命を背負うように生きて死に、また別の時空間へ働き手として潜り込む。
それも一度ではない。
必要なら何度でも繰り返す。
大きなプログラムを滞りなく進めるため、その時代、その場所の要所に現れて交通整理をする役目の天使となり、人々の中に紛れているような存在である。
そう考えると、彼らは幾重もの人生を疑似的に経験することになる。
ある時代では一人の人間として生き、別の時代ではまた別の立場から神’の仕組みに関わる。
少し俗っぽく表現するならば、「神’の会社の延長雇用」のようなものだろうか。
一つの人生で仕事を終えて退職するのではない。
必要な場所があれば、また別の部署、別の時代、別の身体へと派遣される。
それほど長い時間をかけて用意されてきた身魂だからこそ、「昔からの因縁の身魂」と呼ばれているのではないだろうか。
見えないところで御用をつとめる者たち
見事御用つとめ上げてくれよ。
そんな天使が本当にいるとしても、我々一般臣民には、どこにいるのかわからない。
おそらく、特別な姿をして現れるわけでもないだろう。
要所で手を出し、足を出し、口を出す。
しかし、それが神’の御用だとは、それとなくしかわからない。
出日本の隊列の中にも、そうした者たちはいるだろう。
不完全な我々よりも高い視点から全体を見渡し、必要なところで助けを差し出す。
本人自身も、自分の役割のすべてを理解しているとは限らないのかもしれない。
それでも、必要なときには必要な場所にいる。
我々が「奇跡」と呼んでいる出来事も、案外、その原因は身近なところにいるのかもしれない。
神’の働きとは、空から突然何かが降ってくることだけではない。
名も知られない誰かの一言、一つの判断、一つの行動を通して、歴史の流れがほんの少し修正される。
その積み重ねによって、大きな仕組みが予定された方向へ進んでいく。
「見事御用つとめ上げてくれよ」という言葉は、そうした因縁の身魂たちに向けられた、最後まで役目を果たせという神’からの呼びかけなのではないだろうか。
因縁の身魂は歴史の要所に現れる
下つ巻第四帖のこの部分は、「五十九の石」という物だけを語っているのではない。
それを動かす人間、守る人間、運ぶ人間、そして歴史の流れそのものを整える「身魂」について語っているように思える。
五十九の石の正体が明らかになるとき、それに合わせて五十九の石身魂も引き寄せられる。
そして、神器をめぐる事件が一つの引き金となり、日本から聖地へ向かう「出日本」が始まる。
その道程はイスラエルの集合とも重なり、同時に黙示録的な苦難の時代とも重なっていく。
もちろん、ここまでの読みは私自身の仮説である。
しかし日月神示の言葉を一つの大きな仕組みとしてつなげていくと、「五十九の石」と「五十九の石身魂」は別々の話ではなく、同じ出来事の物質的な側面と霊的な側面として描かれているように見えてくる。
そして我々がその時代に立ち会うならば、目の前の出来事だけを見ていてはいけないのだろう。
名もない人々の動きの中に、神’の仕組みを進める「因縁の身魂」が紛れているのかもしれないからである。
書籍紹介|日月神示を原文から読む
日月神示を読み解くうえでは、解説書だけでなく、できるだけ原文そのものに触れておきたい。
一つの言葉だけを取り出して意味を決めるのではなく、前後の帖や別の巻に現れる同じ言葉を追っていくことで、それまで見えなかったつながりが浮かび上がることがある。
特に「身魂」「岩」「石」「因縁」「御用」といった言葉は、日月神示全体を通して繰り返し現れる。
原文をまとめた書籍を手元に置き、自分自身で前後を確認しながら読み進めることをおすすめしたい。


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