日月神示は、神’の仕組みが人の目から隠されているとは限らないことを繰り返し示している。
むしろ、神’は目に見えるもの、数字、形、場所、出来事などを通して、その正体や働きを「見せている」のかもしれない。
ところが、それがあまりにも日常の風景に溶け込んでいると、人は見ていても気づかない。
下つ巻第四帖では、「五十九の岩」という具体的な数字を示しながら、「まだ気がつかんか」と問いかけている。
そして、その徴に気づくこと以上に難しいのが、神’に素直になりながらも、自分自身を失わないことである。
「我を出すな」と言いながら、「我がなくてもならず」ともいう。
今回は、この一見矛盾するような言葉を手がかりに、神’の導きを受け取るための心のあり方を考えてみたい。
早く皆のものに知らしてくれよ、
急けるぞ。
お山の宮も五十九の岩で作らせておいたのに、まだ気がつかんか、
それを見ても
が使ってさしておること、よく分かるであろうが、
それで素直にの申すこと聞いてくれて我を出すなと申しているのぞ、
何事も
にまかせて、取り越し苦労するなよ、
我がなくてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか難しいぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第4帖の一部
神’は急いでいるという。
しかし、人間の感覚からすれば「急ぐと言って、もう何年経ったのか」と思ってしまうほどの時間が流れている。
ここには、人の時間と神’の時間との違いがあるのかもしれない。
そして神’は、ただ待つように求めているわけではない。「皆のものに知らしてくれ」と、人を通して伝えることも求めている。
待つ時間とは、何もしない時間ではないのである。
「神’急けるぞ」――徴を見ながら動くということ
今回の箇所で印象的なのは、「急ける」という言葉と、「まだ気がつかんか」という言葉が続いていることである。
神’は急いでいる。
一方で人は、すでに置かれている徴に気づかない。
ここに、この帖のひとつの核心があるように思える。
神’の仕組みが完全に隠されているから分からないのではなく、目の前にあるものを日常の一部として見過ごしているために分からないのかもしれない。
だとすれば必要なのは、何か特別なものを探し回ることだけではない。
いつも見ているものを、もう一度違った目で見ることである。
ただし、徴を探すことに夢中になれば、それもまた「我」に変わってしまう。
だからこそ最後に、「我がなくてもならず、我があってもならず」と釘を刺されているのではないだろうか。
逐次解説|五十九の岩と「我」に示された神’の御用
神’の「急ぐ」と人間の「急ぐ」は同じなのか
早く皆のものに知らしてくれよ、
急けるぞ。
急ぐといって、もう何年経つ?
人にとって何千年という御業であっても、神’にとっては数日のことなのかもしれない。
また、神’の天上界における時間のあり方は、創造されたこの世界とは仕組みそのものが異なる可能性もある。
神’の「急ぐ」と人の「急ぐ」では、物差しが異なっているのかもしれない。
間延びしたように感じられる時は、人にとって息継ぎとなる。
しかし同時に、それは油断を生む時間にもなる。
それはそれで、神’のことを伝えるには充分な時間があるということでもある。
だが、間に合うだけの時間が与えられているのに、人の無関心が「間に合わない」状況を作ってしまう。
「神’急けるぞ」とは、恐怖に駆られて慌てろという意味ではなく、与えられた時間を無関心のまま浪費するなという呼びかけにも読めるのである。
「五十九の岩」は何を語っているのか
お山の宮も五十九の岩で作らせておいたのに、まだ気がつかんか、
飛鳥説では、「59」という数字をゲマトリア的に解いていた。
5+9=14、さらに1+4=5として、そこに五芒星との関連を見る。
五十九にすると、5+1+9=15、1+5=6で六芒星となるそうだ。
ある神社には、この「星」の徴があったともいう。
もしそれが意図された徴であるならば、神’とヤハウエとを結びつけて考えるひとつの象徴となるだろう。
もちろん、数字の読み方だけで何かを断定することはできない。
しかし重要なのは、日月神示そのものが「五十九の岩」をわざわざ取り上げ、「まだ気がつかんか」と語っていることである。
参道に何らかの徴が並んでいたとしても、それをただの日常の風景として通り過ぎるなら、その事物はその人に何も語れない。
徴とは、そこに存在するだけでは徴にならない。
それを見る者が「これは何だろう」と立ち止まったとき、初めて語り始めるものなのかもしれない。
神’は自らの正体を象徴の中に晒している
それを見ても
が使ってさしておること、よく分かるであろうが、
神’はここかしこに、神’の正体を象徴を用いて晒している。
ミツゲは別のルートと象徴を通して、同じことを悟ることになった。
すると、神域を好奇心むき出しでウロウロすることは不謹慎なのだろうか、と考えることがある。
しかし私は、敬虔さとワクワクは両立していいと思っている。
なぜなら、神’自身がそうなるように仕向けているように思えるからである。
「これは何だろう」
「なぜここに、これがあるのだろう」
その好奇心が、神’の置いた道標に気づく入口になることもある。
敬虔さとは、好奇心を捨てることではない。
自分の答えを神’に押しつけず、驚きながらその徴を見つめることなのではないだろうか。
「そんなわけ……」という我が道標を見えなくする
それで素直にの申すこと聞いてくれて我を出すなと申しているのぞ、
「そんなわけ……」
そう思った瞬間に、自分で可能性を閉ざしてしまうことがある。
もちろん、何でも無批判に信じればいいということではない。
しかし道標が示されているのなら、まずはそのまま行き先として受け取ってみる方がいいこともある。
「そんなわけはない」という否定そのものが、自分の「我」から生まれている場合もあるからだ。
あなたの中の神を神’に近づけるために、素直になろう。
素直になるとは、思考を放棄することではない。
自分の思い込みだけを絶対の基準にしないということである。
答え合わせは後でも、動くのは今でいい
何事も
にまかせて、取り越し苦労するなよ、
答え合わせは、その時でいい。
しかし、動くのはすぐの方がいい。
もっとも、自分の思いの外側にある神’の思いにシンクロするには勇気がいる。
「ホンマかな」
と思うことばかりだからである。
すべてが分かってから動こうとすると、結局いつまでも動けない。
神’にまかせるとは、何もしないことではなく、分からない部分を神’に預けたうえで、自分に示されたところまでは動くことなのかもしれない。
取り越し苦労とは、まだ起きてもいない未来を、自分の頭の中だけで完成させて苦しむことである。
その未来まで自分で背負う必要はない。
今するべきことをして、その先は神’にまかせればいい。
「我がなくてもならず、我があってもならず」の難しさ
我がなくてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか難しいぞ。
我が強いと、道を阻む。
しかし我が弱すぎると、悪魔の導くままについていきそうになる。
なにせ悪魔の方が、信頼したくなるようなことを言うものだ。
だから難しい。
自分を捨てればよいという単純な話ではないのである。
必要なのは、真贋を見抜く心眼である。
その意味でも、瞑想を通して霊感力を鍛えることは、とても大事だと思う。
真理は、あなたの心の中にすでにズッシリと沈んでいる。
その深いところには、生まれたままの神’に近い心がある。
聖書のいう「幼子のようになる」の「幼子」とは、単に幼稚になれということではないだろう。
現世で作り上げてきた自分の思い、常識、恐れ、欲望を超えたところにいる、本来の自分を指しているのではないだろうか。
「我をなくす」のではない。
神’から離れて膨らんだ我を鎮め、その奥にある本来の心を働かせる。
だからこそ、
「我がなくてもならず、我があってもならず」
なのである。
この絶妙なところに立つことが、今度の御用には求められているのかもしれない。
神’にまかせることと、自分で見抜くこと
第四帖のこの部分は、神’に素直に従うことを説きながら、決して思考停止を求めてはいない。
五十九の岩を見ても気づかない。
徴を見ても「そんなわけはない」と否定する。
未来を考えすぎて、取り越し苦労する。
反対に、自分をなくしすぎれば、もっともらしい言葉に導かれてしまう。
だから「我がなくてもならず、我があってもならず」なのである。
神’にまかせながら、自分の内側にある心眼で見抜く。
素直でありながら、流されない。
その一見矛盾する二つを同時に保つことこそ、「なかなか難しい」とされる御用の入口なのではないだろうか。
書籍紹介|日月神示を原文から読み解く
今回取り上げた文章だけでなく、日月神示は前後の帖や巻を通して読むことで、同じ言葉や象徴が別の角度から繰り返されていることに気づく。
特に「我」「身魂」「御用」「神’の仕組み」といった言葉は、一箇所だけを切り取るよりも、原文全体を読み進めながら意味を考える方が理解しやすい。
このブログでの解読は、あくまで私自身が原文と向き合いながら考えたひとつの読み方である。
興味を持った方には、ぜひ日月神示の原文をまとめた書籍を手元に置き、自分自身でも原文を読み、その言葉が何を語りかけてくるのか確かめてほしい。


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