日月神示・下つ巻第五帖では、「江戸に神’と人との集まる宮建てよ」と、これまでよりも具体的な指示が語られている。
しかし、その「宮」は立派な神社や教会を建てよ、という話ではないらしい。
「人の住んでいる家でよい」とされ、そこに神’の石をまつり、神’人を祀り、人々が集まる。そして、そこで新たに「お告げ」を書かせるというのである。
前帖では「教会作るでないぞ、信者作るでないぞ」とまで言っていた。それでは、この第五帖で示される「宮」とはいったい何なのだろうか。
江戸に
と人との集まる宮建てよ、
建てると申しても家は型でよいぞ、仮のものざから人の住んでいる家でよいぞ。
の石まつりて、
人祀りてくれよ。
それが出来たら、そこでお告げ書かすぞ。
淋しくなった人は集まりて、その神示見て読んでみれば、誰でも甦るぞ。
この神示うつす役要るぞ、この神示印刷してはならんぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第5帖の一部
ここで描かれているのは、宗教組織の本部や壮麗な神殿というより、神’と人、人と人とが集まり、神示を受け取り、読み、学び合うための場所のように見える。
しかも、この第五帖が書かれた時代を考えれば、「仮のもの」「人の住んでいる家でよい」という言葉にも、現実的な意味があったのではないだろうか。
神’と人と神示が集まる「宮」とは何か
この第五帖で興味深いのは、「宮を建てよ」と命じながら、その建物自体にはほとんど価値を置いていないことである。
家は「型」でよく、「仮のもの」でよい。
重要なのは建物ではなく、そこに何が置かれ、誰が集まり、何が行われるかなのである。
神’の石があり、神’人が祀られ、神示が書かれ、それを人々が読み、甦っていく。
そう考えると、この「宮」は宗教施設というより、神’と人を結びつけるための一種の集会所として読むこともできそうである。
逐次解説|江戸の宮、神’の石、そして人を甦らせる神示
江戸に「神’と人との集まる宮」を建てる
江戸に
と人との集まる宮建てよ、
この神示が書かれた直近の頃なら、「江戸」とは東京のことだろう。
そして、ここでいう宮は神社ではなく、前にも出てきた集会所のような宮らしい。
ここで神示を書き、それを解いて、学び合う感じだろうか。
神’は岡本天明の中から神示によって現れ、それをもとに関係者が集う場所だったのではないかと思われる。
前帖の「教会作るでないぞ、信者作るでないぞ」とも矛盾しない。
組織を作って信者を囲い込むのではなく、神示を中心として人が集まる。そのための「宮」と考えれば理解しやすい。
「人の住んでいる家でよい」という仮の宮
建てると申しても家は型でよいぞ、仮のものざから人の住んでいる家でよいぞ。
太平洋戦争も末期のこの時期、間もなく東京は空襲で焼かれたり、人々が移動したりと慌ただしい場所になる。
それを見越した、簡易的で機能的な宮を想像してしまう。
そもそも神示自身が「家は型でよい」と言っている。
立派な建築物を造ることが目的なのではない。
普通の家でもよい。仮の場所でもよい。
大切なのは、その場所で何をするかなのだろう。
神’の石と「神’人」を祀る
の石まつりて、
人祀りてくれよ。
神’の石とは、例の五芒星などが刻まれた神’の石だろうか。
そして「神’人」となると、これまでの解読から考えれば、私はイエス・キリストを想像する。
もしそれが人物をかたどった像であり、しかもリアルなものだったとすれば、世間一般がイメージするイエス・キリストとはかなり異なるビジュアルだったのではないだろうか。
クリスチャンが見ても、
「誰?」
という感じだったかもしれない。
岡本天明がもしそのようなものを制作していたなら、見てみたかったな。
実際には人物像ではなく、もっと象徴的なもの、見る者がそこから霊感を受け取るような事物だった可能性もある。
「神’人」が具体的に何を指しているのかは、ここだけでは断定できない。
だからこそ、想像が広がる部分でもある。
宮ができれば、そこで「お告げ」を書かせる
それが出来たら、そこでお告げ書かすぞ。
そこで日月神示が書かれていくのだろうか。
あるいは、日月神示に関連した啓示が別に与えられるのかもしれない。
また、強い印象が新しいうちに、その解き明かしを語る可能性もある。それをメモとして書き留めることもあるだろう。
なぜわかるか?
ミツゲが日常的によくやることだから。
すごい霊感が湧いても、書き留めないと霞のように消えていくんだよね。
「すごかったなー」
という印象だけを残して。
人間というのは、霊のパフォーマンスに肉体、特に脳によってリミッターがかかっているような感じがある。
その瞬間には明確にわかっていたことが、時間が経つにつれて言葉にできなくなっていく。
だから「書かす」という行為には意味があるのだろう。
淋しくなった人が神示を読めば「甦る」
淋しくなった人は集まりて、その神示見て読んでみれば、誰でも甦るぞ。
これから空襲などがあると、先行きが不安になるよね。
だから神示を見て、
「これからどうなるの?」
と知りたくなる。
それを読んで元気になる……のかなぁ。
これまで解いてきた神示を読んでいると、「この戦争は負ける」としか思えない。
さらに、一日に十万人死ぬといった記述まで出てくる。
「この戦争で、そこまで行くの?」
と思ってしまうよね。
むしろ絶望してしまわないだろうか。
しかし、たとえそのように受け取ったとしても、その先があるとわかれば違ってくる。
苦難そのものが最後ではなく、その先に報われる世界がある。
戦争の敗色が濃厚となっていく時代に、それでもまだ希望があると感じ取れたなら、大変な状況の中でも心は救われるのかもしれない。
そしてこれは当時だけの話ではない。
これから――現代においても、というよりも一層、神示は希望を与え続けてくれるものなのだと思う。
ここでいう「甦る」とは、肉体的な復活というより、まず失いかけた心や希望が再び立ち上がることを意味しているのではないだろうか。
「印刷してはならん」――写す役が必要だった理由
この神示うつす役要るぞ、この神示印刷してはならんぞ。
神示は印刷物として大量に配布するのではなく、写本というよりメモのような形で、人々の中に流れていく。
この当時に「この戦争は負ける」という強い印象を受ける――というより、実際そう言っているように読める――神示を印刷して配布することは難しかっただろう。
政府や特高から迫害を受ける可能性が高い時期である。
だからこそ、「うつす役」が必要だったのかもしれない。
そして、これから――現代においても、焚書のようなことが絶対に起こらないとは言い切れない。
なぜなら神示には、神’の敵を怒らせるような内容が満載だもの。
まだ平安のあるうちに、一度触れてみることをお勧めする。
宮とは建物ではなく、人が甦るための場所なのか
第五帖前半を読むと、「宮」という言葉から想像するものが少し変わってくる。
立派な建物はいらない。
普通の家でよい。
そこに神’の石をまつり、神’人を祀り、神示が書かれ、人々が集まってそれを読む。
そして「淋しくなった人」が甦る。
そう考えると、この宮の中心にあるものは建築でも組織でもない。
「神示」なのである。
前帖で「教会作るでないぞ、信者作るでないぞ」と語った直後に「宮建てよ」と命じるのも、この違いを考えると興味深い。
人を組織に所属させるための場所ではなく、人が神’に触れ、再び立ち上がるための場所。
それが第五帖でいう「神’と人との集まる宮」なのかもしれない。
書籍紹介|日月神示の原文を手元で読んでみる
日月神示は、一部分だけを抜き出して読むと、非常に強烈な言葉として受け取ってしまうことがある。
しかし前後の帖を続けて読んでいくと、同じ言葉や象徴が繰り返し現れ、それぞれが少しずつつながって見えてくる。
このブログでは私なりの逐次解読を行っているが、ぜひ原文そのものにも触れてほしい。
解説を読むだけではなく、自分で神示を読み、自分なりに考えてみる。
そのとき、私とはまったく違うものが見えてくるかもしれない。


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