日月神示は、啓示を受けた岡本天明一人のために降ろされたものではない。
神示を書き記すことは始まりにすぎず、それを読める形にし、分かる人へ示し、さらに次の人へと伝えていく必要があった。
しかし、当時は戦時下である。内容によっては、扱い方を間違えれば非常に危険な文書にもなり得る。
だからこそ第6帖では、「早う示してくれよ」と急かす一方で、「見せる時、間違えぬように」と慎重さも求めている。
神示を誰に、どのように伝えるのか。
そこから人が集まり、神を祀り、岩戸開きの元となるものが形づくられていく。
今までの神示、縁ある臣民に早う示してくれよ、
御用の身魂が喜んでいろいろ御用するようになるから、早う示して江戸に仮の宮作りてくれよ。
さま臣民まつろいて、岩戸開く元出来るから、早う知らせてくれよ、
誰でも見て読めるように写して、神前に置いて、誰でも読めるようにしておいてくれよ。
役員よく考えて、見せる時、間違えぬようにしてくれよ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第6帖
ここには、神示が岡本天明個人の手元を離れ、人から人へと伝えられていく過程が示されているように思う。
そして興味深いのは、ただ広く公開すればよいとはされていないことである。
「誰でも読めるように」と「見せる時、間違えぬように」。
一見すると相反するような二つの言葉の間に、当時の状況と神示を伝えることの難しさが見えてくる。
神示を中心に人が集まり、岩戸開きの元ができる
第6帖で語られているのは、単なる文書の公開ではない。
神示を読んで理解できる人へ伝える。そこから御用をする人々が現れ、集まる場所ができ、神を祀り、さらに神示が伝えられていく。
つまり、神示という「文書」を中心として、人と人とのつながりが生まれていくのである。
ただし、それは後世の意味での教団づくりとは少し違うのではないか。
下つ巻第4帖では「教会作るでないぞ、信者作るでないぞ」と明確に示されている。
ならば、ここでいう「仮の宮」も、組織そのものを目的とするのではなく、神示を伝え、神を祀り、御用をする人々の拠点として読む方が自然だろう。
逐次解説|神示を示し、御用の身魂を集める
縁ある臣民に、まず神示を示す
今までの神示、縁ある臣民に早う示してくれよ、
上つ巻が出来て、完全ではないにしても、人が読めるところまできている。
というのも、原文は数字や記号で書かれていて、すぐに人が読めるものではなかったからだ。
啓示を受けた直後なら、岡本天明もある程度までは読み解いたり、解説したりできたかもしれない。
その完全ではないかもしれないメモに近い文書を、霊的な物事をある程度わきまえていて、分かる人に示して腹に入れてもらう必要がある。
しかし当時は戦時下である。
そのまま特高に通報されてもまずいしね。
だから「縁ある臣民」という言葉には、単に興味を持った人という以上に、この神示を受け止めることのできる人、そして安心して見せることのできる人という意味もあったのではないだろうか。
御用の身魂が集まる「仮の宮」
御用の身魂が喜んでいろいろ御用するようになるから、早う示して江戸に仮の宮作りてくれよ。
分かる人だけで集まりたいよね。
これからの心積もりが出来ている人たちが、神示を中心に活動できる拠点を構築しなさいという話だろう。
そこに啓示を受けた岡本天明がいれば、神示として文字になっていないニュアンス的なことも伝えられるかもしれない。
文章として残された神示だけでは伝わらないものもある。
どのような状況で啓示が降ろされたのか。どのように書かれたのか。岡本天明自身が何を感じていたのか。
そうしたものを直接共有できる場所として考えれば、「仮の宮」を作る意味も見えてくる。
そして「仮」とある以上、建物そのものが最終目的ではないことにも注意したい。
人が集まり、御用を始めるための拠点なのである。
神と人が集まり、岩戸開きの元ができる
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さま臣民まつろいて、岩戸開く元出来るから、早う知らせてくれよ、
集まる中には、啓示を受ける霊感のある人もいるだろう。
祀っている神の姿は、すごく霊感を受ける題材だよね。
岩戸を開くとは、ここでは霊感されるということとして読むことができる。
もっとも、そこで集まるくらいなら、以前から霊感を受けていた人たちもいるだろう。
そういう人たちによって真偽はチェックされるんだよ。
一人だけが「神から受けた」と言っているのではなく、それぞれに霊的な感覚を持つ人たちが集まり、神示を読み、祈り、照らし合わせる。
そこに相互の確認が働く。
そう考えるなら、「岩戸開く元出来る」とは、単に何か一度きりの超常現象が起きるというより、人が神から受け取れる状態へと開かれていく、その土台が出来ることなのかもしれない。
誰でも読めるように写し、神前に置く
誰でも見て読めるように写して、神前に置いて、誰でも読めるようにしておいてくれよ。
宮は一つとは限らないね。
そうやって信頼できる人たちに伝わっていって、何かが動き出す。
一つの場所で読まれた神示が写され、それが別の場所へ伝わり、そこでも神前に置かれて読まれる。
そのように考えれば、神示は少しずつ人から人へ広がっていく。
そして、この戦争を超えて、今現在も超えて、その向こうで成就することを前もって読むことができる。
岡本天明の手元に書かれた一つの神示が、写され、読まれ、さらに次の世代へ残される。
実際、私たちが今この神示を読むことができるのも、その伝達が途切れなかったからである。
「誰でも読めるように」という言葉は、当時だけで終わる指示ではなかったのかもしれない。
「見せる時、間違えぬように」が意味するもの
役員よく考えて、見せる時、間違えぬようにしてくれよ。
当時は広く読んでもらうには、とても危ない文書だ。
本当に読む人を選ぶ必要があっただろう。
ところが今は、誰でも読める。
書籍もあり、インターネットにも文章があり、探そうと思えばすぐに読むことができる。
しかし逆に、今は神示が読む人を選んでいると思う。
神に呼ばれている人は確かにいて、選ばれている中で、また選び抜かれていく。
それは、関心・無関心という選びによってである。
目の前に神示があっても読まない人がいる。読んでも何も感じない人もいる。一度離れてから、何年も経って再び戻ってくる人もいる。
情報そのものが隠されていた時代とは違い、現代では読むか読まないかを自分で選ぶことができる。
だからこそ、その選択そのものが一つのふるいになっているとも考えられる。
選んだ結果には誰も文句は言えない。
自分で選んで捨てたのだから。
「隠された神示」から「自ら選ぶ神示」へ
第6帖では、神示を「縁ある臣民」に示すことから始まり、御用の身魂が集まり、仮の宮を作り、神を祀り、神示を写して読めるようにするところまでが語られている。
しかし最後には、「見せる時、間違えぬように」と釘を刺される。
当時は、神示そのものを誰に見せるかを選ばなければならなかった。
現代は違う。
神示はすでに公開され、誰でも読むことができる。
ならば今度は、人が神示を選ぶ番なのだろう。
そして同時に、神示の側からも人が選ばれているように見える。
読むのか。
読まないのか。
読んで終わるのか。
それとも、自分の腹に入れて、自分自身の生き方にまで落とし込んでいくのか。
「誰でも読めるように」という第6帖の言葉が実現した時代だからこそ、その先にある一人ひとりの選択が、より大きな意味を持つのではないだろうか。
書籍紹介|原文から日月神示を読みたい人へ
日月神示は、部分的な引用だけを追っていると、その言葉が置かれた前後の流れを見失うことがある。
一つの帖だけでは意味が分かりにくくても、前後の帖や別の巻を読み進めることで、同じ言葉や思想が繰り返し現れ、その輪郭が見えてくることも多い。
このブログでは一文ずつ解読を試みているが、私の解読だけで意味を決めてしまうのではなく、ぜひ日月神示そのものにも触れてほしい。
原文をまとめた書籍を手元に置いておけば、気になった言葉が出てきたときに前後を確認し、自分自身で読み返すことができる。
日月神示を長く読み続けるなら、原文に戻れる一冊を手元に置いておくことをおすすめしたい。


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