日月神示の下つ巻第7帖では、突然、一二三祝詞の具体的な唱え方が示される。
神’の息に合わせ、「三五七・三五七」に切り、終いだけ節を長くし、それを三度宣りあげるという。
一二三祝詞とは、そもそも何なのか。
そして、なぜ「三五七」であり、なぜ「三度」なのか。
これまで数字を神聖数として読んできた流れから見ると、ここにもかなり意味深な構造が見えてくる。
さらに最後には、「天津祝詞の神ともこの方申すぞ」と告げられる。
祝詞、清め、そして霊的な戦いへの備え。
クリスチャンの視点から見ると、ここには「神の武具」と重なるものまで見えてくるのである。
日月神示・下つ巻第7帖の原文
一二三祝詞する時は、
の息に合わして宣れよ、
の息に合わすのは、三五七・三五七に切って宣れよ。
終いだけ節長くよめよ、
それを三度よみて宣りあげよ。
天津祝詞の神ともこの方申すぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第7帖の一部
ここでは祝詞の内容そのものよりも、まず「どのように宣るのか」が細かく指定されている。
これは単なる言葉の朗読ではなく、呼吸、数、リズム、反復まで含めた何らかの「型」が示されているように見える。
一二三祝詞に隠された「数」と「型」
今回の箇所で注目したいのは、「一二三」「三五七」「三度」という数字が連続して現れることである。
しかも祝詞は「神’の息」に合わせて宣るという。
以前から日月神示に現れる数字を神聖数として解読してきたが、この箇所では、その数字が単なる象徴ではなく、実際の行為のリズムとして使われている可能性がある。
「一二三祝詞」を唱えること自体が、一つの霊的な型を作る行為なのかもしれない。
逐次解説|一二三祝詞、三五七、そして天津祝詞の神
一二三祝詞とは何なのか――まずは解読保留
一二三祝詞する時は、
の息に合わして宣れよ、
一二三祝詞と呼ばれるものはある、らしい。
一般に知られているものとして、次のような文言が伝えられている。
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のます
あせゑ ほれけ
動画もかなりあるね。
実際に聞いてみると、なんだか発声練習みたい(笑)。
ただ、これにどのような意味があるのか、あるいは、これが本命の「一二三祝詞」なのかどうかも不明である。
真の祝詞が裏にある可能性もある。
ただし、名称には神秘主義的な意味が濃厚にある。
「いろは唄」のように、一見すると単なる音の連続に見えるものにも、霊感訳のような読み方ができる可能性はある。
なので、この一二三祝詞そのものの解読は、とりあえず保留にしておこう。
初見での解読は無理みたい。
ただ、「一二三」が三神を示すという、これまでの解読については変わらない。
ここで重要なのは、その一二三祝詞を「神’の息に合わして宣れ」と命じられていることである。
人の息ではなく、神’の息に合わせる。
祝詞とは、単に言葉を読むものではなく、神’の呼吸、神’のリズムに人間の側を合わせていくものなのかもしれない。
三五七・三五七――七五三を反転させた「進撃モード」
の息に合わすのは、三五七・三五七に切って宣れよ。
三五七は、七五三の鏡写しになるね。
これまでの解読では、七五三は「三の神’」の前に、使徒を示す七と五の二列が並ぶ、「信者モード」の並びとして考えてきた。
ところが、三五七ではその順序が逆転する。
三の神’の後ろに、使徒の五と七の二列が続く。
つまり、神’を先頭にした「進撃モード」の並びである。
三五七・三五七は、祝詞による進撃の行進だ。
出日本は、この「一二三祝詞」を唱えて行くのかな?
そう考えると、これまで日月神示に現れてきた「行列」や「御用」のイメージともつながってくる。
大名行列とは、その時の予型だったのかも。
もちろん、ここはかなり象徴的な解読である。
しかし「神’の息」に合わせて、「三五七・三五七」という一定のリズムで宣るという記述を見る限り、少なくとも「行進」を連想させる規則的なリズムが意識されているようには感じる。
終いだけ節長く――イスラエルの行進を重ねてみる
終いだけ節長くよめよ、
最後だけ節を長く読む。
つまり、祝詞には一定のリズムだけでなく、終わり方まで指定されていることになる。
もしこれが本当に「進撃の行進」につながっていくのであれば、その光景はかなり壮大なものになる。
そうなら、アーク(契約の箱)や幕屋などを引き連れたイスラエルの行進は見ものだね。
旧約聖書のイスラエルは、神の臨在を象徴する契約の箱や幕屋とともに荒野を進んだ。
日月神示の描くものとイスラエルの行進をそのまま同一視することはできないが、「神を先頭として民が進む」という構図には興味深い重なりがある。
できれば、その列の中に自分の居場所を得たい。
三度宣りあげる――神聖数で固められた祝詞
それを三度よみて宣りあげよ。
三度詠んで一セットというわけ。
ここでも「三」が出てくる。
三度の「三」も神聖数である。
一二三。
三五七・三五七。
そして三度。
こうして並べてみると、この祝詞の唱え方そのものが神聖数で固められている。
言葉だけではない。
呼吸があり、リズムがあり、数字があり、反復がある。
一二三祝詞とは、言葉の意味だけを理解するものではなく、その「型」そのものに意味が込められている可能性も考えておきたい。
天津祝詞の神――清めと「神の武具」
天津祝詞の神ともこの方申すぞ。
天津祝詞は、一般には清めに関係する祝詞とされている。
ここで「この方」が「天津祝詞の神ともこの方申すぞ」と名乗っていることは興味深い。
清めという観点から見ると、クリスチャンサイドでこれに当たるのは、こんな聖句かもしれない。
エペソ人への手紙6:10-17
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
平和の福音の備えを足にはき、
その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 エペソ人への手紙6章10-17節
ここでパウロが語っている戦いも、血肉に対する戦いではない。
霊的な戦いである。
その戦いに出る前に、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣によって身を固める。
つまり、
浄め=防備
と考えることもできる。
清めとは、ただ汚れを落とすことではない。
霊的な戦いにおいて、自分を守り、神の側に立つための備えでもあるのではないか。
そう考えると、一二三祝詞を「三五七・三五七」で宣りあげるという今回の記述が、先ほどの「進撃モード」という解読ともつながってくる。
戦いは血肉に対するものではない。
だからこそ、必要なのは物質的な武器ではなく、霊的な備えなのだ。
もし死んでも、体は滅びるが霊は生きる。
その覚悟まで含めて考えるなら、ここで語られている「祝詞」とは、単なる儀礼以上のものなのかもしれない。
神’の息に合わせて進むということ
今回の箇所では、一二三祝詞の唱え方がかなり具体的に示されている。
神’の息に合わせる。
三五七・三五七に切る。
終いだけ節を長くする。
そして三度宣りあげる。
一つひとつを見ると不思議な指示だが、数字の構造まで含めて眺めると、そこには一定の「型」が存在しているように見える。
そして三五七を、これまで解読してきた七五三の反転として考えるなら、神’を先頭にして進む「進撃モード」という姿まで浮かんでくる。
ただし、一二三祝詞そのものの意味については、まだ分からない。
ここは無理に結論を出さず、保留にしておきたい。
今後の日月神示の記述の中で、「一二三」「三五七」「祝詞」「天津祝詞」がどのようにつながってくるのか。
その時、今回の箇所の意味も、もう少しはっきりしてくるのかもしれない。
書籍紹介|日月神示の原文を手元で確認する
日月神示を逐次的に読み解いていくのであれば、解説書だけではなく、原文をまとめて確認できる書籍を一冊手元に置いておくと便利である。
特に今回のように、「一二三」「三五七」「三度」といった数字や、「宣れ」「神’の息」といった独特な表現を読む場合、前後の帖と照らし合わせることで見えてくるものもある。
このブログでの解読も一つの読み方にすぎない。
ぜひ原文そのものを読み、自分自身でも「これは何を意味しているのだろう」と考えてみてほしい。


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