日月神示を読んで心に何かを感じたなら、それを人に知らせてやれという。
しかし、無理に引っ張ってはならない。
なぜなら、この神’は信者を集めて喜ぶような神’ではなく、「世界中の民みな信者」だからである。
ここには、日月神示を一つの新しい宗教として広めるのではなく、すでにある宗教や信仰の垣根を越えて、人と人とを横につないでいくという仕組が示されているように思う。
そして、その先にあるのが「世界中大洗濯」という、とてつもなく大きな御業なのである。
この神示読んで嬉しかったら、人に知らしてやれよ、
しかし無理には引っ張ってくれるなよ。
この
は信者集めて喜ぶような
でないぞ、
世界中の民みな信者ぞ、
それで教会のようなことするなと申すのぞ、
世界中大洗濯する
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第7帖の一部ざから、小さいこと思うていると見当とれんことになるぞ。
この第7帖の言葉は、これまで繰り返されてきた「教会を作るな」「信者を作るな」という神示の意味を、さらに大きな視点から明らかにしている。
神示は新しい宗教を作るためのものではない
日月神示を読んで「これは素晴らしい」と思えば、人に知らせたくなる。
しかし、それがいつの間にか「信者を増やす」という発想になれば、神示の示す方向から外れてしまう。
神示が求めているのは、新しい宗派を作り、そこへ人を囲い込むことではないのだろう。
むしろ、それぞれが今いる場所で神’に向き合いながら、必要な者同士が結ばれていく。
そう考えると、「世界中の民みな信者ぞ」という一言が非常に重要になってくる。
逐次解読|「世界中の民みな信者」が示す宗教を超えた仕組
心に喜びを感じたなら、人に知らせればいい
この神示読んで嬉しかったら、人に知らしてやれよ、
神示で心に喜びや希望を感じたら、分かち合いたくなるよね?
この記事を書いているミツゲもそんな気持ちである。
「こんなのがあるよ」と知らせたい。
特に「聖約の民の回復」というテーマにビビンとくる人に知らせたい。
また、クリスチャンと自認する人にも知ってほしい。
岩戸開きとは、そういうことだからである。
誰かを自分と同じ考え方に変えるためではなく、自分が見つけたものを差し出してみる。
そこから先は、その人と神’との問題なのである。
無理に引っ張らず、反応する人に分かち合う
しかし無理には引っ張ってくれるなよ。
触りの部分を少し紹介して、反応がいい人にもっと分かち合う。
そうでなければ、今はそれまでのこと。
もうずっとそれまでのこと、かもしれない。
イエス・キリストが弟子たちを召す時に好奇心で引っ張ったように、好奇心が刺激される人の方が、入り口としては強いし簡単だし、案外と霊的に深い接触になる。
聖霊が呼ぶとは、そんな感じだと実感している。
人を無理に説得する必要はない。
「おや?」と感じるところから始まる方が、その人自身の内側から始まる岩戸開きにつながるのではないだろうか。
神’は信者の数を求めていない
この
は信者集めて喜ぶような
でないぞ、
確かに神示の信者はいらない。
聖典を読んでも考えない人は、この神示を読んでも何も気づかない。多分ね。
というか、読んでみようとも思わないだろう。
「おや?」とも思わず、流れが変わったことにも気づかないだろう。
神を信じているから淘汰からは無縁だなんて思うなよ。
神は意味ない身魂を捨てて、そこの石ころを新たな身魂としてたてる。
福音書の婚礼に招かれた者たちのたとえ話は、ちょうどそんな話だった。
最初に招かれていたということ自体が、最後まで選ばれる保証にはならない。
大切なのは「信者」という肩書ではなく、呼びかけられた時に、その声に気づく身魂なのだろう。
「世界中の民みな信者」という途方もない視点
世界中の民みな信者ぞ、
仏教、ユダヤ教、キリスト教、儒教、道教、イスラム教などなど。
それらの信者は、神示に何かを感じるはずである。
なぜなら、同じところから出た言葉だから。
それぞれの宗教が生命の木なら、神示とはヤドリギであったり、木の周りを吹く霊的な風――プネウマなんだ。
集まる臣民は、各宗教の特徴を持ったまま御業に呼ばれる。
皆が一つの神’に集まる再臨時の先取りを、我々が働き人として受け持つのである。
この見方に立つなら、神示は既存の宗教を破壊して一つの宗教に統合するためのものではない。
それぞれの木を残したまま、その間を風が吹き抜ける。
その風によって、これまで別々に立っていた木々が、実は同じ天を仰いでいたことに気づいていくのかもしれない。
宗教という縦の糸を神示が横につないでいく
それで教会のようなことするなと申すのぞ、
まさに結社なんだ。
教会はすでに出揃っているから。
神示は心ある信者を結び付けていく。
宗教の縦の糸に対して、横の糸にあたるのが神示なんだ。
それぞれの宗教には、それぞれの歴史があり、聖典があり、教義があり、信仰の系譜がある。
それが縦の糸である。
神示は、その縦の糸をもう一本増やそうとしているのではない。
それぞれの縦糸の間を横につなぎ、一枚の布にしようとしているのではないだろうか。
だからこそ、「教会のようなことするな」なのである。
世界の大洗濯は宗教そのものにも及ぶ
世界中大洗濯する
ざから、小さいこと思うていると見当とれんことになるぞ。
宗教も淘汰が始まっている。
信者が個人の啓示を受けることなく、取り残されていく宗教には、最初から神’がいない。
なぜなら、教祖が神の前に出しゃばっているからである。
神の栄光を一生懸命に遮って、自分に栄光を着せている。
いや、神’を幾分か知っているからこそ遮っているのだろうか。
その背後には悪魔の手が透けて見えている。
そういった宗教や教会が、これからの時代に耐え得るわけがなかろう。
「世界中大洗濯」という以上、洗濯される側に宗教だけが含まれないと考える理由はない。
むしろ神’を語りながら、人を神’から遠ざけるものがあるならば、そこほど厳しく問われる場所はないのかもしれない。
神’を見るのか。
それとも、神’を語る人間を見るのか。
その違いが、これからますます大きくなっていくように思えるのである。
信者を増やすのではなく、神’に気づく者を結んでいく
第7帖のこの部分を読むと、日月神示が目指しているものは「日月神示という宗教の拡大」ではないことが、かなりはっきりしてくる。
嬉しかったら知らせる。
しかし無理には引っ張らない。
信者を集めない。
教会を作らない。
なぜなら「世界中の民みな信者」だからである。
それぞれが属している宗教や文化を捨てて、一つの新宗教へ集まるのではない。
それぞれの場所にいながら神’からの呼びかけに気づき、横につながり、御業に加わっていく。
宗教が縦の糸なら、神示は横の糸。
そうして織り上げられるものこそ、これからの「世界中大洗濯」に備える働き人のつながりなのではないだろうか。
小さな宗派の話として読んでいると、「見当とれんことになる」。
この神示が見ているものは、最初から世界全体なのである。
日月神示を原文から読みたい方へ
今回取り上げた言葉だけでなく、日月神示は前後の帖を続けて読むことで、同じ主題が別の角度から繰り返し示されていることが見えてくる。
特に「岩戸開き」「大洗濯」「身魂」「教会を作るな」「信者を作るな」といった言葉は、一つの帖だけで意味を決めてしまわず、全体を通して読むことで互いにつながってくる。
このブログでは一節ずつ解読しているが、自分自身で原文を読み、「おや?」と感じたところを考えてみることも大切だと思う。
その小さな引っかかりが、自分自身の岩戸を開く入り口になるかもしれない。


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