日月神示では、神’を示す独特の表記が繰り返し使われている。
その意味を考えるうえで、下つ巻第9帖の次の言葉は非常に重要である。
「神’」と「○」の違いは、心の中にある、たった一つの「ゝ」であるという。
そして、その「ゝ」を持つ存在は「三四五(みよいづ)の神’」としても現れるという。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第9帖の一部
と○とは心の中に「ゝ」があるか「ゝ」がないかの違いであるぞ。
この方は三四五のとも現われるぞ。
「ゝ」とは、単なる記号なのだろうか。
私はこれまでの解読において、この「ゝ」を、天父から来る霊、すなわち神の意を内に宿していることを示すものとして読んできた。
さらに、その形をヘブライ文字の「ヨッド」と重ねて考えると、日月神示における「神’」という表記そのものにも、別の意味が見えてくる。
たった一つの「ゝ」が神’と○を分ける
この一節で興味深いのは、神’と○がまったく別の形として描かれているわけではないことである。
違うのは、心の中に「ゝ」があるか、ないか。
それだけだという。
外から見れば似ていても、その内側に何が宿っているのかによって、その働きはまったく異なる。
私はここに、救い主と悪魔を分ける根本的な違いを見る。
そして、その鍵となるのが「ゝ」である。
逐次解説|「ゝ」を宿す者と三四五の神’の正体
神’と○を分けるもの――心の中の「ゝ」
と○とは心の中に「ゝ」があるか「ゝ」がないかの違いであるぞ。
元の神の意を受けているか、失っているかの違いがある。
それが、救い主と悪魔の違いとなっている。
私はこの「ゝ」を、YHWH(יהוה)(ヤハウェ又はエホバ)の最初の文字「Y」に当たるヘブライ文字「י」(ヨッド/Yod, Yodh)と解いている。
ヨッドは非常に小さな文字でありながら、神の御名の最初に置かれている。
日月神示が示す「ゝ」もまた、小さな一点のような形である。
さらに私は、日本の勾玉の形も、この形を模しているのではないかと考えている。
もちろん、これは歴史的・言語学的に実証されたものとして述べているのではない。
日月神示を読み解くうえでの、一つの仮説である。
しかし重要なのは、その形そのもの以上に「心の中にある」という点である。
「ゝ」は外側につける印ではない。
内側に宿すものなのである。
現在の世は悪魔が勢いを占めつつあり、いったんは世界を獲ることになる。
しかし、すべてを獲るのではない。
神一厘を残して。
その最後に残された一厘から、世はひっくり返される。
それは人間の力だけによって成し遂げられるものではない。
天父の霊を中に宿すことによって成し遂げられるのである。
だからこそ、「ゝ」があるか、ないかなのである。
三四五の神’として現れる者とは誰なのか
この方は三四五の
とも現われるぞ。
「この方」は、この世の祭神であると同時に、世界を整える頭領として配下を使い、御業を成す存在であると私は考えている。
一二三(ひふみ)の御業に引き続き、三四五(みよいづ)の御業を引っ張っていく方でもある。
一二三から三四五へ。
これは単なる数字の並びではなく、神の御業が段階を追って進められていくことを示しているのではないだろうか。
そして私は、その正体をイエス・キリスト、もしくは彼の意を行う者たちのことだと解いている。
キリスト自身が頭となり、その意を受けた者たちが働く。
そう考えれば、「この方」という一人の存在と、その配下によって進められる御業とは矛盾しない。
三四五(みよいづ)の御用については、上つ巻第34帖の解読でも考察している。

神一厘とは、心の中に残された「ゝ」なのか
神’と○との差は、巨大な力の差として語られているのではない。
心の中に「ゝ」があるか、ないか。
日月神示は、その一点を示している。
世界が悪魔の力に覆われたように見えるときにも、神一厘が残されている。
そして人の内にも、天父の霊を宿す場所がある。
そう考えるならば、「神一厘」と「心の中のゝ」は無関係ではないのかもしれない。
一厘とは、世界の片隅に残された小さな勢力だけを意味するのではなく、人の内に残される神の霊をも指しているのではないだろうか。
その「ゝ」を宿した者たちを通して、三四五の御業が始まる。
私はこの一節を、そのように読んでいる。
書籍紹介|原文から日月神示を読み解くために
日月神示は、部分的な引用だけを追っていると、同じ言葉が別の帖でどのように使われているのかを見失いやすい。
「ゝ」「神’」「一二三」「三四五」「神一厘」といった言葉も、一つの帖だけで意味を確定するのではなく、他の帖とのつながりを見ながら読むことで、その輪郭が少しずつ見えてくる。
そのため、日月神示を深く読み解きたい方には、原文をまとめて確認できる書籍を手元に置いておくことをおすすめしたい。
気になる言葉が出てきたときに前後の帖や別の巻を読み返すことで、ネット上の抜粋だけでは気づきにくい言葉のつながりも見えてくる。


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