日月神示では、神示を世に伝えていくために「役員」が必要であるとされている。
神示を書く者、写す者、説いて聞かせる者。それぞれに役割があり、神示が広がっていくためには、それを担う人が必要になる。
しかし興味深いのは、その直後に役員の資格ともいえる条件が示されていることである。
それは、知識の多さでも、霊感の強さでも、人を導く能力でもない。
「人の後について便所を掃除するだけの心がけ」である。
そして「役員づら」したなら、すぐに替え身魂を使うという。
神’の御用に携わることと、人より偉くなることは正反対なのかもしれない。
江戸の御社は誰でも気楽に来て拝めるようにしておいてくれよ、
この方の神示書く役員、神示うつす役員、神示説いてきかす役員要るぞ、
役員は人の後について便所を掃除するだけの心がけないとつとまらんぞ。
役員づらしたら、すぐ替え身魂使うぞ。
[完訳]日月神示 岡本天明 著 中矢伸一 校訂 ヒカルランド 第2巻 下つ巻 第9帖の一部
ここには、神示を広く開いておくこと、そのために働く人が必要であること、そしてその働き人が最も警戒すべきものが「高慢」であることが、一続きに語られている。
なぜ「役員」であるほど低いところに立つのか
普通、「役員」と聞けば組織の上に立つ人を想像する。
しかし、この神示で描かれる役員像はむしろ逆である。
神示を扱うから偉いのではない。神’の御用をしているから特別なのでもない。
人が通った後について便所を掃除する。
それくらいの心がなければ務まらないというのである。
ここにあるのは、役職ではなく奉仕という考え方ではないだろうか。
そして神示そのものも、一部の特別な人だけが囲い込むものではない。「誰でも気楽に来て拝める」ようにしておくことが求められている。
この二つは、実は同じ方向を向いているように思える。
逐次解説|開かれた神示と「役員」に求められる心
江戸の御社は、誰でも気楽に来られる場所にする
江戸の御社は誰でも気楽に来て拝めるようにしておいてくれよ、
東京や都市にできた拠点は、気軽に誰でも来られる場所とすること。
知った者だけで固まることのないように、という意味ではないだろうか。
改心を伝えられる必要がある者は、おそらく皆だ。
そして誰が働き人になるかはわからない。
それがわかるように、都合よく役員に霊感を与えるわけではないのだろう。
だからこそ、神示は開かれたものとして、気前よく皆が触れることができるようでありたい。
今はこうしてネットでも、本としてでも読むことができている。
かつては限られた場所で書き写し、人から人へと伝えるしかなかったものを、今では誰でも容易に読むことができる。
「誰でも気楽に来て」という言葉を、現代という時代からもう一度考えてみてもいいと思う。
「書く」「うつす」「説いてきかす」――三つの役員
この方の神示書く役員、神示うつす役員、神示説いてきかす役員要るぞ、
ここでは三種類の役員が挙げられている。
まず「神示書く役員」。
原文を書き、できる限りの解き明かしをする岡本天明のような役割である。口述するなら、それを書き留める者も必要になる。
次に「神示うつす役員」。
神示をメモとして世間に見せていくために、コピー係として紙に写す者である。「写経」に近いような働きも考えられる。
そして「神示説いてきかす役員」。
神示を公式に読み下せる文書にする者、また来訪者に公式の解き明かしを説明する者と考えることができる。
書く人がいる。
それを複製して広げる人がいる。
そして、その意味を人に伝える人がいる。
恐らく巨大な組織を作ってこれらを行うというよりも、それぞれの場所で草の根的な活動をしていくのではないだろうか。
現代で考えれば、印刷だけでなく出版やウェブ、SNSなども「うつす」「説いてきかす」働きの延長線上に置いて考えることができるかもしれない。
役員の資格は「便所を掃除する心」
役員は人の後について便所を掃除するだけの心がけないとつとまらんぞ。
かなり強烈な表現である。
役員は偉ぶる人ではなく、奉仕のマインドが根差している人であるべきだということだろう。
人から見える場所で立派なことをするだけではない。
誰にも注目されないところで、人の後始末をする。
誰かが汚したものを黙ってきれいにする。
しかも、それによって自分が評価されることを求めない。
「便所を掃除する」という表現には、そのような徹底した謙虚さが表れているように思える。
神’の御用をする者が上に立つのではない。
むしろ、人の下に回ることができる者だからこそ、御用を任せられるという逆転がここにはある。
「役員づら」した瞬間、替え身魂が使われる
役員づらしたら、すぐ替え身魂使うぞ。
偉そうにしていたら交替させられてしまう。
というのも、偉そうな人は自然と境遇に不満をため、自分から去っていくことが多い。
「自分はこれだけやっているのに」
「なぜ自分が評価されないのか」
「なぜ自分の言うことを聞かないのか」
そうした思いが積み重なれば、奉仕であったはずのものが、いつの間にか自分の地位を守るためのものへと変わっていく。
そして霊感からも自然と遠ざかり、神域から離れていく。
そうなると、まず救いの中に戻ってくることはないほど難しい状態に陥ることもある。
そして、むしろ知らなかった方が幸せだったという事態にもなりかねない。
高慢という特質は、人の心を致命的なかたちで蝕んでいく。
しかも高慢の恐ろしいところは、高慢になっている本人ほど、自分の高慢に気づきにくいことである。
そうなりつつある自分に気づくだけの客観性がなければ、心の洗濯はできない。
「替え身魂使うぞ」という言葉も、単なる人事交替としてだけ読む必要はないのかもしれない。
一人が御用から離れれば、神’の御業そのものが止まるわけではない。
別の身魂が用いられ、御業はそのまま進んでいく。
あなたの救いを置き去りにして神’の御業は進んでいく――そんなことにならないように。
これは役員だけに向けられた警告ではなく、神示を知り、それを人に伝えようとする者すべてが心に置いておくべき言葉ではないだろうか。
神’の御用は「自分でなければならない仕事」ではない
第9帖のこの部分を読むと、神’の御用において重要なのは「何を任されたか」以上に、「どのような心でそれをするか」なのだと思えてくる。
書く者が必要である。
写す者が必要である。
説いて聞かせる者も必要である。
しかし、その誰もが代わりのいない特別な人間なのではない。
役員づらすれば「替え身魂」が使われる。
神’の御業は、一人の人間の地位や名誉のためにあるのではないからだろう。
だからこそ、御用を与えられたことそのものを自分の価値と取り違えてはいけない。
人の後について便所を掃除できるか。
誰にも知られなくても働けるか。
自分ではなく別の人が用いられても喜べるか。
「役員」という言葉の本当の重さは、そこにあるのかもしれない。
神示を読むほど偉くなるのではなく、神示を知るほど低いところへ降りていく。
その心を失わないことが、心の洗濯を続けることでもあるのだろう。
書籍紹介|原文から『日月神示』を読み直す
日月神示は、解説だけを読んで理解したつもりになるよりも、原文そのものに繰り返し触れることで見えてくるものがある。
同じ一節であっても、前後の帖と続けて読むことで意味のつながりが見えてきたり、以前は気にならなかった言葉が突然目に留まったりする。
本記事も一つの読み方にすぎない。
だからこそ、興味を持った方には日月神示の原文をまとめた書籍を手元に置き、自分自身で原文を読みながら考えてみることをおすすめしたい。


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