もし再臨が「今すぐ」ではなく、すでに始まっている時間の中でゆっくり近づいているのだとしたらどうだろう。
1999年を起点に千年を一日と見立てると、再臨の位置は「真夜中」に浮かび上がる。その時は約2249年。
──あれ?まだ先じゃないか。
そう思った瞬間、もっと重要な問いが立ち上がる。
では、自分はその時まで待てるのか。
末日はすでに始まっているのか
聖書的には、私たちはすでに「末日」にいる。
これから始まるのではなく、すでにその時間の中にいる。
では、その中で再臨はどこにあるのか。
1999年というひとつの境目
ひとつの象徴的な年がある。
1999年8月(旧暦7月)
- グランドクロス
- 世紀末
- ノストラダムスの預言詩との符合
もしここを
最後の千年紀のはじまりのしるし
と見るなら、1999年は福千年の入口=夕方になる。
福千年は「夕方」から始まる
この見方では、
- 1999年 → 夕方
- そこから千年 → 福千年
ただしそれは、いきなり光に満ちた時代ではない。
夕方から夜へ入る過程として始まる。
再臨は「真夜中」だとしたら
ここでひとつ仮定を置く。
再臨は「日が切り替わる瞬間」、つまり夜中の0時に対応するのではないか?
千年を一日にすると、
- 1000年=24時間
- 1時間 ≒ 約42年
夕方18時から真夜中までは6時間。
約250年
1999年に足すと、2249年ごろになる。
まだ先?それとも、もう始まっている?
この計算を見ると「まだ200年くらいある」と感じる。
しかし見方を変えると、再臨は
すでに始まっている流れの頂点
とも言える。
「すぐに来る」と二千年
見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 ヨハネの黙示録22章12節
しかし現実には約2000年が過ぎている。
愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 ペテロの第二の手紙3章8節
人と神では時間の尺度が違う。
それでも最も重要なこと
その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 マタイによる福音書24章36節
正確な時は分からない。
まるで盗人のようにやってくる。
悪魔のささやき
「まだ先なら大丈夫」
「自分の一生くらいは余裕だろう」
この感覚は自然だが、危うい。
なぜ甘くないのか
再臨の時期と、自分の人生の終わりは別だからだ。
その時の状態が、そのまま結果になる。
結局、再臨はいつなのか
1999年 → 夕方
2249年 → 真夜中
ここまで推測できる。
しかし結論は変わらない。
正解は「わからない」
人は必ず予想を外す
- すぐ来ると思う人 → 待たされる
- まだまだと思う人 → 「もう?」となる
だから目を覚ましていなさい
だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 マタイによる福音書24章42節
真夜中に来るというたとえ
夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
新約聖書 日本聖書協会 口語訳 マタイによる福音書25章6節
来たのは真夜中だった。
あなたの救いか滅びか? その時は神によって定まっている。
1999年が夕方なら、真夜中は2249年ごろかもしれない。
しかしそれは安心の理由にはならない。
自分の終わりはもっと近いからだ。
その時に目を覚ましていられるかどうかは、今この瞬間で決まっている。


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