日本では「天皇」と「天皇陛下」が同じものとして語られることが多い。けれど、霊的な観点から見れば、この二つはまったく別の存在を指している。
「天皇」は天の王――つまり神そのもの。
一方で「天皇陛下」は、その神に仕える人間の王、祭司的な存在である。
この区別を見失うと、国家神道の時代のように、人が神の座に座ろうとする危うい信仰が再び顔を出すことになる。
「過ちは、繰り返しませんから」――その言葉は誰に向けられたのか
広島の原爆碑に刻まれた言葉。
「過ちは、繰り返しませんから」。
この一文には、長いあいだ解かれぬ問いが潜んでいる。
――その「過ち」とは誰がどこに向けた言葉なのか?
アメリカが無差別殺人として原爆を落としたことへの反省なのか?
または日本が戦争を起こしたという罪を悔いる言葉だという人もいる。
しかし、陰陽の視点から見れば、どちらも正しく、どちらも過ちなのだ。
そして、もっと重要なことがある。
この碑文はいったい「誰に向けて」語られているのか。
もしそれが「天皇」にではなく「天皇陛下」に向けられているのだとすれば、それは神への悔い改めではなく、人間としての反省を意味しているのではないだろうか。
天皇とは天の王 ― 聖典に見る「神」としての王
古来、「天皇」という語は単なる人間の称号ではなかった。
それは「天の王」、すなわち神そのものを意味する言葉だった。
聖典の中でも、「天の王」は明確に神を指している。
引用をいくつか挙げてみよう。
- 「そこでわれネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。」(ダニエル書4:7)
- 「主であり天の王であるわたしが彼らの王となる。」(モルモン書:第2ニーファイ10:14)
- 「おお、あなたがたはどれほど天の王に感謝すべきであろうか。」(モルモン書:モーサヤ2:19)
これらの言葉は、「天皇」という称号が単なる国家の元首ではなく、天の王=神そのものを象徴することを示している。
つまり、天皇は人間ではない。神である。
天皇陛下 ― 神に仕える大祭司としての人
では、現実に存在する「天皇陛下」はどうだろうか。
彼は神ではない。人として、神の意志を地上に伝える預言者的な存在である。
天皇陛下は神国日本の祭司であり、神のビジョンを地上で実現する使命を負っている。
彼は神の前に謙遜に立ち、国と民のために祈り、平和を祈念する。
それは政治の行為というよりも、霊的な奉仕だ。
ゆえに、天皇陛下を「現人神」と呼ぶのは誤りである。
それは鏡の中の像を本体と取り違えることと同じであり、信仰を自己崇拝へとすり替えてしまう危険がある。
太陽と月の比喩 ― 神と人の関係を映す鏡
神と人の関係は、太陽と月の関係に似ている。
天皇(神)は太陽、天皇陛下(人)は月。
月は自ら光らない。太陽の光を受けて初めて輝く。
同じように、天皇陛下は天皇(神)の光を受け、その意志を地上で反映する存在だ。
天皇陛下を天皇と呼ぶときは省略、もしくは人である天皇陛下を通して神である天皇を指しているのである。
天皇陛下は日本や神の象徴として本気で「演じて」いるともいえる。
そのようであろうとしているのである。
彼らは個人として一族として問題や人としての至らない部分を抱えているであろうが、象徴としてあるべき存在として努力をしている。
日本国民も天皇(神)の臣民として、神の臣民としてふさわしくあろうとするべきである。
そこにこそ神から信頼を得られる道がある。
天皇陛下が神の意志と一致しているとき、日本は「神国」として輝きを取り戻す。
だが、その反映が歪められるとき、神風は吹かない。
これは単なる比喩ではなく、国家の霊的バランスを示す象徴でもある。
なぜこの区別が大切なのか
現代の私たちは、ニュースや学校教育を通じて「天皇=人間」と教えられてきた。
それは正しい一面を持つが、同時に片側しか見ていない。
逆に「天皇陛下=神」と信じ込むのも、また危険である。
どちらの極にも偏らず、「誰を指して天皇と言っているのか」を常に意識することが大切だ。
この視点を持つだけで、歴史の読み方も、報道の見え方も変わる。
信仰と国家、権威と霊性――そのねじれを見抜く力が養われる。
結び ― 神を映す鏡としての天皇陛下
天皇陛下は神ではない。
しかし、神を映す鏡として、その光を地上に反映する存在である。
そして、私たち一人ひとりもまた、神の像(かたち)として創られた存在だ。
「天皇と天皇陛下の違いを知る」ということは、神と人との関係を正しく映す鏡を磨くことでもある。
この国の精神を守るために、私たちは再びその鏡を曇らせてはならない。


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