太陽が隠れ、世界が闇に沈む――
それは神が沈黙した時代の象徴だった。
けれど、神は決して去ったのではない。
天照大神が岩戸に籠もり、イエスが墓に伏したその奥で、
ひとつの光が静かに再び息を吹き返そうとしている。
異なる神話に語られた二つの物語は、
いま、同じ「再臨」の預言としてひとつに結ばれようとしている。
隠された神 ― 天照大神とイエスの共鳴
天照大神が岩戸に籠もったとき、世界は闇に包まれた。
それは、光が人の心から退く「神の沈黙」の象徴である。
イエス・キリストもまた、十字架の死によって墓に入り、三日後に復活した。
両者は、「光が一度隠れ、再び現れる」という同じ霊的プロセスを体現している。
岩戸=墓 / 闇=神の沈黙 / 再出現=復活 / 光の帰還=救済
天照大神が象徴した“隠れた光”は、イエスにおいて“顕れた光”として成就した。
二人の物語は、東西の異なる神話を超えて、神の再臨という一点で交わる。
女神の時代 ― 隠された真相
天照大神が“女神”として記されたのは、神の本質がまだ覆いの中にあった時代を意味している。
母性としての光――それは「神の受容と包容」を象徴する半分の啓示だった。
神が岩戸に隠れた後、天皇という代行者が“男性”として陽の座に立った。
それは、神の光を象徴的に示すための仮の陽、いわば影の太陽である。
やがて神が再び陽として顕れる時代――再臨の時には、陰陽が反転し、象徴は退き、神そのものが現れる。
女神として隠された光(天照大神)は、イエスとして再び陽の座に立つ。
荒療治としての愛 ― 神の峻厳と慈悲
イエスは旧約の神エホバと同一の存在であり、愛と峻厳を併せ持つ神である。
神は人を滅ぼすために怒るのではなく、魂を立て直すために痛みを通して目を覚まさせる。
天変地異や混乱は罰ではなく、覚醒のための揺さぶり。神の「荒療治」は愛の裏返しであり、失われた民を呼び戻すための治療的な裁きである。
それは終末ではなく、再生の前触れ。
岩戸の前で神々が舞ったように、いまの試練もまた、神を呼び戻すための“祈りの舞”である。
篩いと蘇民将来 ― 選ばれる民とは
試練の中で人々は篩にかけられる。
しかし、神の篩いは罰ではなく、配剤である。
富や権力を持つ者ではなく、心に誠を持つ者こそ、蘇民将来のように守られる。
神は、誰を裁くかではなく、誰が目覚めるかを見ておられる。
そして篩から落ちた者たちも、神の国の外に追われるのではなく、別の場に備えられる者たちである。
神の国とは上下ではなく包容の秩序。
中心に立つ者も周縁に置かれる者も、それぞれが神の意志を担い、全体として神の体を成す。
死を超える愛 ― 神の国の完成へ
神は現世だけを人生として見ていない。現世と来世、両方を含めて霊の成長の旅路と見ておられる。だから地上の死は終わりではなく、魂の再配置――神の秩序への帰還である。
イエスは「たとえ死んでも生きる」と言い、死を通して愛の永遠を示した。
神の峻厳は滅びのためではなく、再生のための火。篩にかけられたすべての魂は、やがて再び神の光に帰っていく。
終章:隠れた光の帰還 ― 神の王国の夜明け
「天照大神はいまだ岩戸に隠れている」――それは、神の真相がいまだ顕れていない時代という預言である。
しかし、その沈黙の裏には、再び岩戸が開かれる予兆がある。
拝金と享楽の闇を越え、祈りと誠の民が残るとき、隠された太陽は再び昇る。
イエス=天照大神という光は、覆われていた真実をすべて明らかにし、
神の国の福千年――愛と峻厳の統治が始まるだろう。
この神話は終末の物語ではなく、再生の預言である。神は滅びではなく、光の回復を望んでいる。
人がその光を思い出すとき、天照大神の岩戸は再び開かれる。


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